戦時中に創価教育学会は会長の牧口常三郎を筆頭に21人が、治安維持法・不敬罪で逮捕・勾留された。創価学会はこれを戦争に反対したからだと宣伝しているが、牧口や戸田が戦争に反対した事実がないことは彼等の手記などから明らかである。それについては過去に記事にしているのでそれを読んで欲しいが、この時に逮捕されて創価学会員の大半はその時に退転した。牧口は獄中死して最後まで退転せずに出所したのが戸田城聖なのだが、もう一人最後まで退転しなかったのが矢島周平である。つまり21人のうちで退転しなかったのは、牧口と戸田そして矢島の3人だった。池田大作は『人間革命』で、「あの弾圧の時、二十一名の幹部の中で、退転しなかったのは牧口常三郎と彼(戸田)との二人だけであった」と記述し創価では矢島は退転した事にされているが、「牧口-戸田以下21名が、治安維持法違反、神宮に対する不敬罪で検挙された。牧口・戸田・矢島周平の3名は、最後まで信仰を変えず、牧口は44年11月「南無妙法蓮華経」と唱えつつ、74歳で獄死した」(『近現代仏教の歴史』吉田久一)、「昭和17年7月16日に牧口と戸田も連行されるなど計21名が治安維持法違反と不敬罪で起訴処分を受け、創価教育学会は壊滅的打撃を蒙った。このうち他幹部は退転して釈放されたが、牧口、戸田、矢島周平は初志を貫き、翌19年11月18日、牧口は栄養失調と老衰のため獄中で74歳の生涯を閉じた」(『新宗教辞典』松野純孝)との記述がある。個人的には小説や創価の機関誌発表よりもこの記述の方が客観的ではないかと思う。矢島は戦後すぐ戸田の下に集い、日本小学館( 戦後は日本正学館と改称)で働き、戸田の二期目の法華経講義を受け、戦後の創価学会と戸田の事業の復興・再建に尽力した人物である。故に昭和25年に戸田の跡目として創価学会の第二代理事長に就任したのだろう。しかし翌昭和26年に戸田の会長就任を機に理事長の職を解かれた後に日蓮正宗に出家し矢島秀覚と名乗ることになる。池田は矢島について、「矢島さんは良い調子で派閥を作った。親の心、子知らずで、戸田先生の気持等全然わからず、良い調子になった」(『社長会全記録』昭和43年4月29日)と語っているが、矢島自身は、「ひとくちにいえば、戸田さんに追い出されたんです。私は彼の教学に批判的だったし、事業のやり方にも反対だった。それをしばしば口にしたわけです。それが戸田さんには気に入らなかった(『週刊ポスト』昭和53年9月22日号)と証言している。どのような経緯が有ったかは知らないが、矢島は正宗で出家をしているし、当時矢島を批判した文献もない。それが2008頃になって既に鬼籍に入ってる矢島に対する批判が突如始まった。2009年1月10日付の聖教新聞に掲載された、『池田大作──その行動と軌跡・若き指導者は勝った(第5回)』で池田は矢島に対し、「しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨てさらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は戸田に拾われ日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。これだけ変節を繰り返してなお混乱のすきを突いて理事長になるとは相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。」、「矢島は黒い噂の絶えない男であった。廃棄処分のチョコレートを会員に売りつける。女性会員に言い寄る。戸田城聖を慕う会員を切り崩し自派に取りこむ。 要するに金、異性、権力欲が三拍子そろっていた。」等といい矢島を退転者に仕立て上げ、矢島のことなど全く知らない創価学会員に矢島が悪人であったかのように思わせたのである。そして「私(池田)は創価学会を幾度も救った。まず戸田先生の事業の苦境。矢島の謀略」と得意の「私が全部やりました!」の決め台詞である。まぁ池田の矢島観は全部池田にブーメランだと思うが、矢島が創価や戸田、池田を批判したという事実もないのに、半世紀以上も経過し本人も死亡して反論が出来ない状況でこのように他者を貶める発言する人間は異常者だと思う。池田はこうやって、側近達を退転者にしてきたわけだ。宗門攻撃をして破門されて戒壇大御本尊を棄てた池田こそが極悪非道の退転者なのによく言うわ。だから池田は口が曲がっているんだな。ウソをつくと口が曲がると、私の祖母が良く行ったが本当の事だったな。
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