創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価学会退会の処方箋②創価を退会したら友達を失ってしまうと思っている方

創価学会員として男子部デビューしたばかりの頃、創価活動家は学会員以外(いわゆる外部)の友達が極端に少ないなぁと感じました。二世活動家などは子供のころから学会員の友人しかいなかったというし、「学会活動を真剣にしたら友人がいなくなった。でもそれは真の友人ではなかったのだからいなくなっても構わない」と外部に友人が少ないことを自虐ネタの自慢話に語る幹部もいたけど、いまいち笑えなかった。私は学会活動をしたら友達が増えると思っていたし外部に友人がいなかったら広宣流布なんてできないと思っていた。(事実、外部友人の少ない活動家は新聞啓蒙も折伏も結果をだせないでいた)でもいざ自分が学会活動を始めると確かに外部の友人と接触する機会は激減し代わりに内部の人間との接触が極端に増えるので自然と外部の友人とは疎遠になっていくんですね。なにせ当時は毎日のように活動や会合があったから外部の友人と遊びにいくなんて物理的に無理でしたからね。それでも外部の友人との付き合いは失っていなかったから新聞啓蒙や折伏はできたけど正直相手に嫌な気分をさせたと思います。こうして外部の友人を排除することが創価MC(マインドコントロール)の手法のひとつなのですが当時は気が付かなくて外部の友達との交流は減ったけど内部に友達が増えたからプラマイ0以上かな?なんて思ってました。このように外部の友人と疎遠になってしまった創価学会員が退会できない大きな理由のひとつに「退会すると友達を失って一人ぼっちになってしまう」という恐怖感があると思います。長く創価組織にいる学会員にこの傾向が強く年配の壮年・婦人が創価を退会できない理由の上位を占めているのではないと感じています。私の母も退会するときその日初めて会った婦人幹部に「創価学会を退会したら一人ぼっちで寂しく死んでいく」と非常識極まりない言葉を投げつけられた一人です。さて私は組織からの選挙闘争の打ち出し期間中に折伏をしたのをきっかけに査問もなく除名にもなっていなのに創価組織から事実上の追放をされたのですが、信頼していた創価の同志達は裏で結託し策謀を巡らせて私を組織から追い出したわけです。追放の過程では組織内に私に対するウソの情報を流し誹謗中傷していました。その見事なまでの手のひら返しを知った時に創価学会員がそれまで私に対して接してきた態度は本当の優しさとか好意ではなく求められる結果を出す重宝な活動家として体よく利用していただけだったと気付きました。私と面と向かっているときはそれまで通りフレンドリーに対応しているのに陰では追放計画を着々と進めている。そのおぞましさは言葉で表現できない気持ち悪さです。もちろん少数ですが私に味方してくれた人もいましたが、その人たちは私と一緒に組織から追放されたり自分から組織を離れていきました。全員が当時の地元男子部の中心的な活動家でした。つまり貴方が同志とか友人とか思っている創価学会員のほとんどはその程度の人間でありその程度の繋がりしかないということです。貴方が創価の活動を続けているうちは親身になって味方をしてくれるでしょうが、活動を辞めれば「退転者」といわれ退会なんてした日には「犬畜生」扱いです。街中であっても挨拶すら交わさない。ネットでも少しでも創価を批判した会員に対して罵詈雑言を投げつける学会員を目にしたことがあると思いますが、それが「同志」とか「友人」と呼んでいる創価学会員の正体なのです。本当に貴方を友達だと思ってくれている学会員ならば仮に貴方が創価を退会しても貴方から離れません。私にも現役創価の友人はいます。ただ大多数の学会員は周囲から姿を消しました。そのような創価学会員は最初から友人ではないのです。それに出会いと別れなんて世間でもよくあることです。貴方は中学・高校時代に友達だった人のうちの何人と大人になってからも交流してますか?多分は10人といないでしょう。学校を卒業するときは友達と別れるのが淋しくて泣いたかもしれませんが時が過ぎれば思い出しもしないし思い出されもしない関係の人が大半です。また貴方は社会に出て新しい友人は一人もできませんでしたか?私はむしろ学生時代の友人より社会人になってからの友人・知人の方が多いです。だから創価を退会しても本当に仲の良い会員さんとは交流はなくならないし、創価を退会しても新しい友人は出来ます。「退会したら一人ぼっちになる」と脅す創価活動家もいますけど、全然そんな心配はないのです。むしろ創価活動から解放されれば新しい出会いもあるし疎遠になっていた知人との繋がりが復活することの方が多いのです。選挙や新聞購読を頼む為に友人・知人に連絡するようなイヤな事をする必要もないし相手にもイヤな想いをさせることもない普通の人間関係を営むことができます。また自分と合わない嫌いな人間と無理に付き合うこともなくなります。それは多くの創価退会者が証明・証言しています。だから「創価を退会したら友人を失う」というは創価に植え付けられた妄想に過ぎません。退会して貴方が失うのは創価の友人ではなく貴方を利用している悪人だけです。「同志」なんていう陳腐な言葉に惑わされてはいけません。創価組織に同志愛なんてありません。創価内のつまらない保身のために「組織を護る」というもっともらしい大義名分で平気で同志を裏切り見捨てるのが創価学会員です。創価学会という閉鎖された世界の中で見せかけの「友達ごっこ」をしているより創価を出て偽善や虚飾のないコミュニティで新しい友人とつながることが人生を豊かに楽しく生きる方途です。創価を退会すれば利害関係のない本当に友人が見つかります。勇気を出して創価を退会し新しい世界に踏み出してください。

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「0」(ゼロ)と仏教の話【数学】

皆さんは数学好きですか?学生時代には数学が苦手という人が結構多かった気がします。私は中学の時の担任教師が数学教師でその影響か数学は好きでした。数学に使う数字というのは無数にありますけど人類が初めて使った数字は間違いなく『自然数』ですよね。1・2・3・・と自然界に存在する数が『自然数』です。数学的に言うと『正の整数』です。最初の数字(アラビア数字・現代の数字)は1~9までしかありませんでした。何故かというと「0(ゼロ)」が数字として認められていなかったらです。「0」は数字じゃくて空位を示す記号だったんですね。これを「位取りのゼロ」といいます。そのゼロが数字としてみなされるようになったのは6~7世紀頃のインドが発祥だと言われています。それまでインドではゼロを示す記号として「・」(点)が使われていましたが、7世紀のインドの数学者・ブラーマグプタという人の著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』のなかに「0(ゼロ)」の概念が述べられていますが、ブラーマグプタは数としての「0(ゼロ)」を「シューニャ」と名付けていてこれはサンスクリットで「空」を意味しています。ここで数学と仏法のがつながるのです。そしてこの「0」からインドではさらに「負の数」というのも発見されます。それから数字は小数・分数などの有理数無理数虚数と無限に広がっていくのですが全ては「0」(ゼロ)を発見したことが数字の起点だと思っています。この「0」の発見の何がすごいかと言えば「0」を「無」ではなく「空」と定義したところです。もし「0」=「無」としたならば「負の整数」は見つからなかったし当然他の数字も見つかりません。「0」=「空」としたことによって数字は無限になったのです。放浪の天才数学者と言われている ポール・エルデシュ「数学は科学の言語であり、哲学の方法であり、芸術の表現である」と言いましたがまさにその通りなんですね。数学はある意味でこの世の全ての基本なのです。そしてその数学を作り出したのが仏法なんです。数学は方程式ですから数学を作り出した仏法もまた方程式で決して空想でも何でもありません。一見して無関係と思える数学と仏法には深い関連があるわけです。凄いと思いませんか?こうしたところに仏法思想の他宗教に対する優位性があると感じます。

 

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久遠元初・即座開悟について(寝言丸さんの質問への回答)

寝言丸さんからキリスト教関連の記事に対して「久遠元初」「即座開悟」等に関する質問があったのでお答えしたいと思います。そこでまず個別の質問に答える前に仏法における「時空」の捉え方の基本を書きます。御書にも引用されていますが妙楽大師が『弘決』において「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」と述べているように久遠元初の御本仏は「時間」や「空間」を超えて法界に遍満する「超時空」の存在なのです。だから「時間軸」の視点から仏法を理解しようとするのは少し視座が違います。「時間は存在しない」という考え方は現代理論物理学でも多くの学者が支持する理論でもあり哲学においても同様です。「時間」が存在しないならば「空間」も存在しません。仏法では「時空」は「非空非有・亦無亦有」(中道)であると説いているのです。これが仏法的視座に立った「時空」の捉え方です。これを前提に質問に答えると(太字は寝言丸さんのご質問)

>始まりがなければ終わりはない、言葉ではそうかもしれませんが、久遠元初という元の初めがある

「久遠元初」というのは「久遠実成」の対する言葉で「久遠実成の当初(そのかみ)」という意味ですがこれは「先後」という時系列を意味しているのではありません。本果である「久遠実成」に対して本因の「久遠元初」を示しているのです。つまり時間的な「先後」ではなく因果を示しているのです。「初」というのは「始まり」という意味ではなく「本因」という意味です。この「本因」は冒頭で書いたように「非空非有・亦無亦有」ですから「無始無終」です。本因がそうであれば本果も同じですから当然「因果具時」となり因と果にタイムラグはありません。因も果も「無始無終」なのです。

>即座開悟もいまいち不明瞭なままスルーしてます。

「即座開悟」については『三世諸仏総勘文教相廃立』に「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」との御文がありますが、この御文は凡夫にも理解できるように三身に約して法体を示している譬喩的な御文です。即ち我が身は応身(仮諦)、地水火風空法身(空諦)、知ろしめしては報身(中諦)という意味です。久遠元初には時間軸がありませんからこの三身(三諦)は本来は同時に存在しているのです(無作三身)。しかしそれが凡夫には理解できないから一応としてこのように説明しているのです。実際には我が身を離れて地水火風空知ろしめしても無いのです。これは法身・報身についても同じことが言えます。つまりこの三身・三諦は同時・同体なのです。また仏法には仏界所具の人界と人界所具の仏界の違いによる能所の区別はありますが「成仏」と意味においては凡夫と仏の生命に差異はありません。「悟れば仏・迷えば凡夫」です。キリスト教では人間は神になれませんが仏法では人間は成仏できるのです。そして「即座開悟」とは御本仏が悟って仏になったという意味ではなく最初から南無妙法蓮華経だったということです。「即座開悟」とはあくまでも教相面の表現であって観心においては「無始無終・人法一箇の南無妙法蓮華経」の法体を示しているのです。

> 仮に大聖人様の仏法の側から説明しても神も無始無終で初めから神なのだと言われたら…… かつて人だった仏は良くて神がダメな理由…… 

これは論点が違います。キリスト教において神が初めから神であったかどうかが問題なのではなく、「神が世界を作った」という教義が問題なのです。最初から存在していた神が全知全能の力で「無」から全てを作ったとしても作られたものは必ず滅するのが道理であり因果です。従ってキリスト教では世界の全てに「終わり」があるのです。人間が信仰によって神になれるなら永遠性は担保されますが、前述の通りキリスト教では人間は絶対に神になれません。天国があろうがなかろうが自分という「己」は期間限定の消えてなくなる存在なのです。「己」が消滅するのであれば苦楽も善悪もまた放置しておけば自然消滅するので進んで善を行う意味も悪を懺悔する必要もないのです。このようにキリスト教においては人間は存在しているときは神の支配下に置かれていつか完全消滅するのです。つまり究極は「己」は「無」なのです。だからキリスト教では「有」である時点の事しか説き表せない。それは宗教の一番重要なファクターである「死」の対して無回答であるのと同じです。なので仏法と比較するとキリスト教の教えは非理であり理論破綻の多い瑕疵宗教と言わざるを得ません。前回のキリスト教に関する記事は『創世記』の最初の部分だけ取り上げて書きましたが、「アダムとエバ」や「ノアの箱舟」なども非理であり瑕疵教義です。キリスト教についてはまた記事で色々と書いていきますが、とりあえずご質問に関する回答は以上の通りです。

 

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御書に書いてない⁉池田創価のインチキ法門②「人間革命」

師弟不二」よりも酷いインチキ法門と言えば「人間革命」だろうな。創価公式によると「人間革命」とは、自分自身の生命や境涯をよりよく変革し人間として成長・向上していくことらしく創価思想を凝縮した言葉だそうだが、勿論「人間革命」などという言葉は御書には書いていない。御書に書いていないどころか創価オリジナルでもない。創価における「人間革命」の初出は昭和24年8月の戸田城聖会長の巻頭言(戸田城聖全集第1巻)である。

この「人間革命」は政治学者であり東大名誉教授だった南原繁氏のが初めて使った言葉である。その内容を一部抜粋すると「人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社会的生活においてのみでなく、人間存在の内容そのもの、内的思推の革命をなす必要に迫られている。こいれは道徳的宗教的なる「精神革命」、また「文化革命」であり、これなくしては民主的誠二革命も空虚であり、遂に失敗に終わるであろう」(人間革命・南原繁著)という内容である。この南原氏の言葉を戸田会長が引用したの創価の「人間革命」の始まりだ。そしてその巻頭言から2年後に戸田会長は自身の小説に「人間革命」という題名を付け池田大作もそれに続き、いつの間にか南原氏の言葉だった「人間革命」は創価学会が提唱した創価のオリジナルのようになったしまった。つまり「人間革命」という言葉は、創価が南原氏から【借りパク】して素知らぬ顔して自教団の根本思想としてしまった盗作創価教義なのである。信仰の根本である本尊だけでなく教団教義に使っている言葉まで盗作なのが池田創価の実態だ。ゴーストに小説を書かせていることで「池田代作」とネット界隈では揶揄されているが代作というよりこれでは「池田盗作」だ。著作権関連で会員にスラップ訴訟を連発している創価だが自分たちも著作権を犯しているのではないか。いや【借りパク】だから横領罪だろうか。いずれにしても、「人間革命」は南原氏の言葉であり大聖人の御書には書かれていないインチキ創価借りパク法門である。そのように批判すると「人間革命という言葉は御書の思想を現代に分かりやすく解釈した言葉である」と反論する学会員もいる。正宗に対しては御書に書いていないことは邪義だというくせにいけしゃあしゃあとどの面下げて言ってるんだよと思うが、確かに戸田会長がは南原氏の「人間革命」と創価の人間革命とは「内容と方法が異なっている」と説明している(上画像を参照)それでは戸田会長が言う(考える)「人間革命」の内容と方法はいかなるものか?それは同じ巻頭言の最後に明記されている。

「しかるに、一般社会人は、仏法の実体も知らず、ましてや三大秘法随一の、本門の本尊も知らない。よろしく宗教改革を唱え、人間革命を叫ぶ者は、日蓮大聖人のご教示対して、深く思いをいたすべきであると、信ずるものである」と戸田会長は言っている。いうまでもなく戸田会長のいう「三大秘法随一の本門の本尊」とは本門戒壇大御本尊に他ならない。即ち戸田会長の主張する「人間革命」とは本門戒壇の大御本尊に対する信仰によって成し遂げられる自己改革であり、その解釈であるならばギリなんとか大聖人の御書の意を汲んだと言えよう。しかるに現在の池田創価戒壇大御本尊を棄ててしまったのであるから戸田会長のいう「人間革命」は創価組織の中で達成することはできないことは明白である。【借りパク】したスローガンだけの有名無実の「人間革命」を目指して無駄な時間で人生を消費させられているのが創価学会員なのだ。「イカサマ人間革命の呪縛」から一日も早く逃走することが、あなたの本当の人間革命の第一歩なのである。

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聖書的創造論を破折する。【キリスト教】

世界宗教NO.1と言えば知っての通りキリスト教。世界人口の約1/3がキリスト教徒と言われている。将来的にはイスラム教徒がキリスト教徒の数を上回ると予想さているが元はユダヤ教からキリスト教が生まれキリスト教からイスラム教が生まれてるのでこの3宗教は共通点も多い。キリスト教ユダヤ教イスラム教と違うのはイエスを神と位置付けているところでユダヤイスラム教徒にとってイエスは人間である。キリスト教は大きくカトリックプロテスタントに分かれるが仏教同様に多くの教派が存在する。統一教会エホバの証人ものみの塔)もカルト教というカテゴリーが無いならキリスト教派にカテゴライズされるだろう。今回はそうした各論ではなくキリスト教系(ユダヤイスラム教を含む)の根本部分の不条理を指摘したいと思う。キリスト教系の宗派の共通聖典は『旧約聖書』で『創世記』に書かれている「アダムとエバ」や「ノアの箱舟」などは知っている人も多いだろう。その『創世記』の前半にキリスト教系の信仰観の根本である【この世界の全ては神によって作られた】という話が書かれている。いつも言うように信仰には「信仰的事実」というモノがあるから聖書の内容を科学的根拠がないなどという陳腐な台詞で否定する気はない。問題はその内容に信仰に資する合理性があるかどうかである。結論から言えば『創世記』に書かれている内容にはいくつもの非理と瑕疵がある。全てを書き出すと長くなってしまうので今回は【この世界の全ては神によって作られた】という根本部分を取り上げる。キリスト教では神が「無」から世界を創造したとしているが、理論的に「無」から「有」は生じない。何故なら「無」は「有」に依ってのみ存在するからだ。つまり「有」が存在しない限り「無」は存在しない。存在する者(有)は無くせるが何もない状況(無)から何かを作ることはできない。「神は全知全能だから無から有を作る事が出来る」というような反論は神が全知全能であることを論証しなければならず循環論法による誤謬(詭弁)なので議論に値しない。聖書に書かれいる世界創造以前状態である「混沌(カオス)」というものが「無」であるならばカオスから何も生まれないので世界は作れないし、「有」であるならば神が世界創造する以前にカオスという世界が既に存在していたのだから神が世界の全てを創造したことにならないので聖書的創造論は破綻する。「混沌(カオス)」が何であるかは聖書からは読み取れない。もちろん私は神学を学んでいるわけはないのでキリスト教徒がこの問題をどのように解釈しているかは知らないが「混沌(カオス)」が無でも有でもどちらにしても【この世界の全ては神によって作られた】という理論は納得いくものではない。よしんば【この世界の全ては神によって作られた】という理論を容認したしよう。そうすると今度は神が創造した全ての存在に永遠性が無くなる。作られたものは必ず消滅するからだ。始まり(作られた)があるものには必ず終わり(消滅)がある。終わりがなければ始まりといわない。消滅しなければ作られたことにならない。キリスト教の敬虔な信徒として良い事をして死にゆくときに満足感を得ることは素晴らしい事だと思うが、そうした人生の満足感を得るだけならば信仰は要らない。「良い事」をして生きて満足して死んでいけばいいだけである。信仰が信仰たる所以は「死」に対する教え(回答)があるからだ。一応はキリスト教の死後観は「召天」して天国で復活の日まで過ごすとされているが今述べたように作られた存在(有)は必ず消滅する(無)のが道理だからキリスト教の理論だと永遠の生命も永遠の天国も存在しない。従って人間は復活しない。新たに別の人間を神が作るだけである。このようにキリスト教では信仰に最も重要なファクターである死について明確な答えは得られない。それは全て【この世界の全ては神によって作られた】という聖書的創造論を根本に置いているからだ。ここにキリスト教の教理の瑕疵がある。このように物事の因果を無視したキリスト教は不条理で人間が幸福になれるような信仰ではないと思える。

 

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寝言丸さんのお姉さんが勧誡を決意されたそうです!

当ブログの読者の寝言丸さんからお姉さんが創価を退会し勧誡を受ける決意をされたというLINEをもらいました。私は寝言丸さんの勧誡の時に携わらせていただきお付き合いをさせていただいており彼のお姉さんの件も少し聞き及んでいたので正直いって寝言丸さんのお姉さんか創価から正宗に移籍するのは相当ハードルが高いと感じていたので今回の報告を聞いて驚くやら嬉しいやらでジーンときました。経緯についてはプライベートなことなどで私の方からは言えませんがお姉さんが勧誡を受けて大石寺に御登山したいと言われたそうです。お姉さんが何らかの不満・不信を創価学会に感じた面もあったと思いますが、寝言丸さんが諦めずに折伏を続けたこと、そして何よりも寝言丸さんに正宗に移籍してからの姿がお姉さんに戒壇大御本尊様の力を知らしめたのだと思います。それが決め手だったのでないかと感じます。親族は他人よりも長くそして頻繁に自分と接しているわけですから親族に折伏はやはり自分の日頃の言動が決め手になると思います。これで寝言丸さんは主要な家族全員への折伏を成就したそうです。亡くなったお父様に対する最高の親孝行であり喜ばれていると思います。「折伏は途中でやめなければ絶対に成就する」というのが私の昔からの信念ですけど今回の寝言丸さんの報告を聞いて自分の折伏信念は間違っていなかったと自信になりました。私も一応は親・子・兄弟・妻と正宗信徒になりましたが甥や姪、義母・義弟・義妹とまだまだ折伏すべき一族が大勢いるので頑張りたいと思います。それにしても当ブログの読者の人達の折伏成就の御報告はいつも自分のことように嬉しいし勇気になります。ありがとうございます。寝言丸さんのお姉さんの勧誡式の日まで魔が入らないように御祈念させていただきます。

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御講拝読御書研鑽(2024年4月・諫暁八幡抄 )

日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり

今月は大聖人の立宗の月にちなんで『諫暁八幡抄 』の御文を御講にて拝読しました。本抄は弘安3年12月に身延において認めれらた御書で総本山大石寺に御真筆があります。日顕上人は御真蹟の末尾に「建武第三丙子六月六日読誦し奉り畢んぬ日道判」 と、日道上人の御筆跡で認められていることを示されたあと、「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基もといとして御書の拝読が種々の形で行われたことを知る証左となる」 (昭和57年御霊宝虫払大法会御書講の砌)と御指南されています。さて今回拝読の御文は法門的な内容ではないので「読めば分かる」という御文ですが、このように「読めば分かる」御文こそどう読むか何を感じるかを問われるわけです。御文の趣旨としては建長5年の立宗宣言から28年大聖人は他事なく一切衆生に南無妙法蓮華経を弘通してきたのは慈悲であるということですが、慈悲には衆生縁の慈悲(小慈悲)、法縁慈悲(中慈悲)、無縁慈悲(大慈悲)と三種類あります。このうちの大慈悲は仏の慈悲です。今回の御文に書かれている「他事なく折伏をする」という大聖人の御振舞いこそが御本仏の大慈悲です。「他事なく」とは自分のことなど思わないでということです。「不惜身命」ですね。我々凡夫にはこの他事のない(自分都合を挟まない)信心はできないのです。むしろ自分の事が中心です。折伏をするにしても心のどこかで自分の功徳を期待してまう。いやむしろ自分の功徳の為に折伏をする。だから願いや望みがなければ折伏しない。もちろん自分が幸福になるための信心であり大聖人も我々が幸福になることを望まれていますし、何よりも我々凡夫は大慈悲を持ち合わせていませんから自分の願いを叶えるために信心をすることは間違っていません。しかし日蓮大聖人の弟子檀那としてはそれでは余りにも情けないし三宝に対して報恩感謝がありません。とはいっても大慈悲はないし・・ではどうべきかという事を日寛上人は『観心本尊文段』で「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」とご教授して下っています。自分事でもなんでも理由の如何を問わず「折伏成就したい」と唱題行に励むことです。唱題行に励む時に入我我入の法義によって自分に御本仏の大慈悲が顕れるのですから。日如猊下や御住職が折伏を実践するにあたって大切なのは唱題であると重ねて御指南されるのは慈悲行である折伏を成就するためには御本仏の大慈悲の仏力を我が身に顕現させることが一番の要だからです。私もまだまだ折伏をしたい友人知人が大勢いますから日々の唱題行に精進して折伏成就できるように頑張りたいと思っています。

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