富士門流宗史
日興上人が大聖人の御遺骨を奉持して身延に入山したのは弘安5年10月25日ですがその後、弘安8年に日向が身延に入山すると身延は謗法と化しついに日興上人は身延を離山することになります。(日興上人の身延離山史については過去記事をお読みください)日興上…
日蓮大聖人が身延に入山するとともに日興上人の富士地方の積極果敢な折伏が開始されその教線は拡大しその結果熱原法難が惹起します。(熱原法難については過去記事をリンクしましたのでそちらを参考にしてください)熱原法難の報告を受けた大聖人は時光に急…
大聖人の御在世の素晴らしい御信徒達は大勢いますが、私の中では筆頭はやはり南条時光です。大石寺の開基檀那だということもありますが、(池田創価は大石寺周辺の広大な土地を寄進したと偉そうにしていますけど、元はその土地は全て最初に南条時光が寄進し…
大田乗明(大田五郎左衛門尉乗明)は、三善康連の次男として日蓮大聖人と同じ年の貞応元年(1222)に生まれました。祖父は三善康信で源頼朝に仕え初代問注所の執筆(現在だと裁判所長官)に任命された人で、父・康連そして乗明も問注所の役人で、大田家は常…
富木常忍と聞くと真面目で几帳面なお堅いエリートで資産家のオジサンというのが私のイメージで、こんな人が父親だったら躾が厳しくて私が子供だったら耐えられないかも?なんて妄想したりしますが、富木五郎胤継は若宮(現・千葉県市川市)の領主で大聖人外…
佐渡で一番最初に大聖人の信徒になった阿仏房の出自については諸説ありますが、現在の所は佐渡土着の武士であるとされています。妻の千日尼と共に佐渡流罪中の大聖人を外護し大聖人が身延に入られてから阿仏房は高齢の身で3度身延の大聖人の許を訪ねていま…
今回は池上左衛門太夫康光の子息で、兄・右衛門太夫宗仲、弟・兵衛志宗長の池上兄弟の話です。池上家の由来は記録によると摂政・藤原忠平の三男・忠方が平将門の乱平定の為に京より下向し武蔵国千束池の上に住したことから池上の名を氏にしたことに始まると…
日蓮大聖人には女性信徒も大勢いましたが中でも個人的に一番なのが、乙御前の母の日妙聖人です。幼い乙御前をつれて佐渡の大聖人の許を訪ねるその純真さと強さは間違いなく私の中では「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」です(笑)。そんな日妙聖人の氏素性はハ…
佐渡流罪が赦免された大聖人は文永11年(1274)3月26日に鎌倉に戻り同年4月8日に平左衛門尉と対面し3度目の国家諌暁をするも聞き入れられず身延に入山されますが、生きて2度とは帰れないといわれた佐渡流罪から大聖人が戻られたことは門下一同には大きな喜…
富士宗門史として今回から日蓮大聖人御在世の信徒の略伝をかいていきたいと思います。独断と偏見でトップバターは四条金吾です。四条金吾の正式名は【四条中務三郎左衛門尉頼基】といいます。四条は性、三郎は通称、頼基は名で中務は父・頼員の官名(中務少…
波木利日円の謗法により日興上人が身延離山の決意をされた状況と心情は、日円の子息である正信の信徒である原殿に宛てた『原殿御返事』に詳しく書かれいます。聖典にも掲載されているので聖典を所有している方はぜひ一読してください。当抄の内容は最初に身…
日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日…
弘安7年10月13日に身延久遠寺において他の老僧が不参のなかで日蓮大聖人の三回忌法要を執り行った日興上人がその直後に、上総国の美作房日保師に書かれたのが『美作房御返事』です。同書の詳細については別に機会に譲りますが内容を要約すると「鎌倉方…
大聖人の御葬儀と初七日法要を終えた日興上人は、弘安5年10月21日に大聖人の御遺灰を抱いて池上を出発し、27日に身延に入山されました。 ◇御身骨を身延山に移し奉る事。或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、2…
昨年2月に日興上人の略伝を書きましたが、日興上人の御生涯で一番の出来事といえばやはり身延山離山からの富士大石寺開創だと思います。そこで日興上人の別伝として数回に分けて日興上人の身延離山の略伝を書きたいと思います。それに先立って日興上人の御…
ここまで江戸時代を中心に大石寺の法難の歴史を記してきました。江戸時代以降にも様々な法難がありました。戦時中でいえば『弾正会』の創始者である藤本秀之介氏(後に出家し蓮城と名乗る)の投獄・獄死一応は創価学会の牧口・戸田の両氏の投獄・獄死も日亨…
金沢法難は日亨上人が富要集において『長』と記したように享保8年(1723)より江戸幕府崩壊までの約100年間の長期間に亘る法難です。領内に末寺が無い事から国禁(藩内における信仰の禁止)となり、その結果、閉門・閉戸・入牢・扶持離れ等の弾圧が続きまし…
江戸末期の弘化3年~4年にかけて惹起した『弘化度の法難』は、法難が惹起した地名から『猫沢法難』とも呼ばれている法難です。(また『猫沢問答』とも呼ばれます)。当時の柚野(ゆの)村(現静岡県芝川町)には、大石寺末の蓮成寺がありその近辺に一致派…
八戸法難は江戸時代末期の弘化元年(1844)に仙台・仏眼寺の玄妙房日成師による八戸弘教によって惹起した法難です。日成師は天保13年(1842)に奥州弘教に為に長横町の阿部喜七宅に投宿されその滞在中に、喜七と娘婿・阿部豊作を教化し、さらにこの両名の折…
文政5年(1882)に大石寺信徒・永瀬清十郎の名古屋弘教によって惹起した法難が『尾張法難』です。清十郎は元々は日蓮宗一致派信徒でしたが大石寺の正義をしり日量上人の俗弟子となった人です。文政5年より自信がかつて日蓮宗を布教した名古屋の地の縁故の…
『伊那法難』は、天明4年(1784)、信州・伊那(現在の長野県伊那市)で城倉茂左衛門が中心に折伏弘教した結果惹起した法難です。茂左衛門の生まれた城倉家は元々は曹洞宗・常輪寺の檀家でしたが茂左衛門の祖父の代から内々に日蓮宗身延派・深妙寺に帰依す…
今回は、寛政7年(1795)~文化4年(1807)の13年間に惹起した『寛政度の法難』を書きます。この法難は京都・要法寺の本尊改奠(かいてん)運動に伴う法難です。要法寺の起源は日目上人の御遷化後に上洛して代奏をした日尊師がそのまま京都に残り上行院を…
蓮華阿闍梨日持は五老僧の中で最も謎の多い人物です。建長2年(1250)駿河国(静岡県)庵原郡松野の生まれ松野六郎衛門の子息とされてますが定かではありません。しかし松野家と重縁ある一族の生まれであることは間違いないでしょう。幼名を松千代といい幼…
伊予阿闍梨日頂は建長4年(1252)駿河国(静岡県)重須の豪族・小林伊予守定時を父として産まれましが父が戦死し母が鎌倉に出て、その時に富木常忍と再婚しまし富木常忍の養子となりました。弟に後に日興上人の元で重須の学頭となった日澄師、妹に乙御前が…
先日、北山の見学をしてきたので今回は江戸九箇の法難のひとつ『讃岐法難』について書きます。『讃岐法難』は北山の謀略によって大石寺門流である讃岐本門寺(高永山本門寺)が北山の末寺として約300年の長きに亘り北山の支配を受けてきた法難で、この法…
民部阿闍梨日向は日興上人より7歳年下で建長5年(1253)上総藻原(現在の千葉県茂原市)に産まれ、父は男金の小林民部実信。幼名を民部といい実長と名付けられました。10歳の時に父・実信の知人であった高乗院岳天に随い叡山に登って出家しました。大聖…
大聖人の2番目の弟子の大国阿闍梨日郎(筑後房)は寛元3年(1245)4月生まれで日興上人より1歳年長です。父は能手郷平賀二郎有国、母は印東氏の出で有国死後に平賀忠晴と再婚し日像・日輪の2子をもうけました。建長6年、日郎16歳の時に松葉谷の大聖人の…
先日、仙台の仏眼寺さんに参詣してきたので今日は【仙台法難】の記事を書きたいと思います。 日蓮正宗寺院を訪ねる①【法龍山・仏眼寺(仙台)】 - 創価ダメだしブログ 仙台法難は江戸時代9箇の法難のひとつで明和2年(1765)に日真上人の弟子である覚林房…
富士門流ではないですが五老僧の略伝を書いてみたいと思います。とはいっても五老僧に関しては日蓮正宗サイドには五老僧についての詳しい書物もありませんし身延日蓮宗等の他門流は史実にはないことや真偽の怪しい史料などを採用した伝記を伝えているので五…
今日は日興上人の祥月命日です。私の所属寺院はコロナの関係で興師会が中止になったので、今年は初めて自宅の仏壇に芹をお供えしました。我家の仏壇は小さいので芹をお供えしたら他の供物は全部下げることに・・・でも日興上人の大好物ですからお供えしまし…