創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

聖書的創造論を破折する。【キリスト教】

世界宗教NO.1と言えば知っての通りキリスト教。世界人口の約1/3がキリスト教徒と言われている。将来的にはイスラム教徒がキリスト教徒の数を上回ると予想さているが元はユダヤ教からキリスト教が生まれキリスト教からイスラム教が生まれてるのでこの3宗教は共通点も多い。キリスト教ユダヤ教イスラム教と違うのはイエスを神と位置付けているところでユダヤイスラム教徒にとってイエスは人間である。キリスト教は大きくカトリックプロテスタントに分かれるが仏教同様に多くの教派が存在する。統一教会エホバの証人ものみの塔)もカルト教というカテゴリーが無いならキリスト教派にカテゴライズされるだろう。今回はそうした各論ではなくキリスト教系(ユダヤイスラム教を含む)の根本部分の不条理を指摘したいと思う。キリスト教系の宗派の共通聖典は『旧約聖書』で『創世記』に書かれている「アダムとエバ」や「ノアの箱舟」などは知っている人も多いだろう。その『創世記』の前半にキリスト教系の信仰観の根本である【この世界の全ては神によって作られた】という話が書かれている。いつも言うように信仰には「信仰的事実」というモノがあるから聖書の内容を科学的根拠がないなどという陳腐な台詞で否定する気はない。問題はその内容に信仰に資する合理性があるかどうかである。結論から言えば『創世記』に書かれている内容にはいくつもの非理と瑕疵がある。全てを書き出すと長くなってしまうので今回は【この世界の全ては神によって作られた】という根本部分を取り上げる。キリスト教では神が「無」から世界を創造したとしているが、理論的に「無」から「有」は生じない。何故なら「無」は「有」に依ってのみ存在するからだ。つまり「有」が存在しない限り「無」は存在しない。存在する者(有)は無くせるが何もない状況(無)から何かを作ることはできない。「神は全知全能だから無から有を作る事が出来る」というような反論は神が全知全能であることを論証しなければならず循環論法による誤謬(詭弁)なので議論に値しない。聖書に書かれいる世界創造以前状態である「混沌(カオス)」というものが「無」であるならばカオスから何も生まれないので世界は作れないし、「有」であるならば神が世界創造する以前にカオスという世界が既に存在していたのだから神が世界の全てを創造したことにならないので聖書的創造論は破綻する。「混沌(カオス)」が何であるかは聖書からは読み取れない。もちろん私は神学を学んでいるわけはないのでキリスト教徒がこの問題をどのように解釈しているかは知らないが「混沌(カオス)」が無でも有でもどちらにしても【この世界の全ては神によって作られた】という理論は納得いくものではない。よしんば【この世界の全ては神によって作られた】という理論を容認したしよう。そうすると今度は神が創造した全ての存在に永遠性が無くなる。作られたものは必ず消滅するからだ。始まり(作られた)があるものには必ず終わり(消滅)がある。終わりがなければ始まりといわない。消滅しなければ作られたことにならない。キリスト教の敬虔な信徒として良い事をして死にゆくときに満足感を得ることは素晴らしい事だと思うが、そうした人生の満足感を得るだけならば信仰は要らない。「良い事」をして生きて満足して死んでいけばいいだけである。信仰が信仰たる所以は「死」に対する教え(回答)があるからだ。一応はキリスト教の死後観は「召天」して天国で復活の日まで過ごすとされているが今述べたように作られた存在(有)は必ず消滅する(無)のが道理だからキリスト教の理論だと永遠の生命も永遠の天国も存在しない。従って人間は復活しない。新たに別の人間を神が作るだけである。このようにキリスト教では信仰に最も重要なファクターである死について明確な答えは得られない。それは全て【この世界の全ては神によって作られた】という聖書的創造論を根本に置いているからだ。ここにキリスト教の教理の瑕疵がある。このように物事の因果を無視したキリスト教は不条理で人間が幸福になれるような信仰ではないと思える。

 

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