「神様には今の事を、仏様には死後の事をお願いする」信仰を持つ前の私はぼんやりとそんな風に思っていました。初詣や厄払いに縁結びや安産に受験合格などの祈願は神社だけど、葬式や法事はお寺にお願いする。一般的な神仏に関する感覚はこんな感じだと思いますが皆さんどうでしょうか?さて神社の神様は分類すると、自然神(山や海の神・北島三郎の世界)、生活神(トイレの神様とか)、祖霊神(先祖の神様・通称氏神)、人物神(学問の神様菅原道真など)、神話神(天照大神等)となります。因みにエンタの神様は天宇受売命(アメノウズメノミコト)です笑。私達はこれらの神様に色々なお願いをするわけですが、実はこの神様達は人間を守ったり救ったり願いを叶えたりする約束は何ひとつしていないって知ってますか?「神道」と聞くと他の宗教の様に「聖典」や「教え」みたいなものがあるのかと思いきや、実は「神社神道」には神様の言葉を書き残した聖典の類はひとつもありません。聖典がないということは、「教え(教義)」もないし教祖・宗祖もいません。神社神道にあるのは、「空間」と「儀式」だけなのです。その儀式も神様が決めた儀式ではなく人間が勝手に「古事記」などを参考に神様に忖度して決めた儀式です。つまり神社で何をお願いしても神様は何もしてくれないということです。お賽銭が10円でも100万円でも神様は何も願いを叶えてくれません。そんな約束を人間としていないのだから当然です。そんないけずな神様ですが仏様と出会って「正法(仏法)を信仰する人間は守る」と約束するんですね。正確にいうと「正法」「仏様」を守るのがメインで人間を守るのはその一環なのですけど、これを専門用語でいうと「神仏習合」といいます。ところが正法を守らず却って破る人間が多いので神様は自宅のある天上界(高天原)に帰ってしまっているので現在の神社には神様が住まなくなって代わりに悪鬼・鬼神が神社に居座っている。というのが日蓮大聖人の法門です(神天上法門といいます)日蓮大聖人は神様を否定していると誤解されてますがそれは全然違います。神様を否定しているのではなく現在の神社の在り方を否定してるのです。正法に帰依しなければ神の守りもないし、現状の神社には悪鬼しかいないからそこに行って祈るとむしろ危険だよ。と理を尽くして説いているのです。ですから神社にお参りするのは無意味で正法を受持することが神様にも守られることになるのです。前述しましたが神社の儀式はそもそもが神様とは無関係です。もちろん「トイレの神様」も「エンタの神様」もいません(笑)。神様を敬うというのは仏法を敬うことであり、仏・法・僧の三宝を敬うことなのです。正法(三宝)を不敬することは神様に対しても不敬することになります。神社神道は教えもなければ教祖もいない。だから道理から言っても何も願いは叶わないのです。神様は神社にいるのではなく正法を信仰している人の所にいるという大聖人の説法は「神社に神様がいて願いを叶えてくれる。守ってくれる」という主張よりも理に適っています。それにも関わらず、「厄除け」とか「○○成就」とか何か利益があるような宣伝をするのは日本に古来から存在する、自然や精霊といったものに対する信仰心を神社が神様の名のもとに利用しているだけだと思っています。「多度大社」の馬上げの神事について以前書きましたけど現在の神社神道は「神事」と名前をつければなんでも許されると思っているのではないでしょうか。実際に何の「教え」もないのだから「何でも有り」なのが神社神道なのです。それは「何にもない」の裏返しです。
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