三重県桑名市の多度大社で行われる【上げ馬神事】。昨年この神事で骨折した馬が殺処分されたことで動物虐待として今も物議を醸し問題になっている。この神事ではここ15年で少なくとも4頭の馬が殺処分されたこともあり馬上げの中止を求める声が上がりマスコミにも報道された。馬主は愛情を込めて世話をしていたとコメントしているが愛情を込めた馬を危険な神事に出すのか?それとも上げ馬に出すために愛情を込めたのか?よく私には理解できない愛情だ。世間の講義に対し三重県教育委員会は多度大社に改善の勧告を行い、多度大社側はこれまでの2m程の壁を低くするなど対策を施したうえで継続する意向のようだ。【上げ馬神事】については動画も多く出回っているが、人間が馬を蹴ったりっ叩いたり息苦しくてとても正視できなかった。動物愛護の観点から中止されたイベントは他にも色々とある。闘犬で有名だった「とさいぬパーク」(高知県)は閉館となり、沖縄観光の定番だったハブとマングースの戦いも今では見ることが出来ない。一方で多度大社の【上げ馬神事】や諏訪大社の【 蛙狩神事】(生きた蛙を捕まえ串刺しにて生贄にする)などは【神事】として残っている。単なる観光イベントや祭りではなく【神事】としているところが曲者だ。【神事】とは神に関する祭りごと・儀式のことで一般的な「祭り」とはその趣が多少異なる。多度大社の神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)だそうだが、天津彦根命が「上げ馬をせよ」と言ったのかというとそうではない。では一体誰が【上げ馬】を神事にしたのかと言えば人間である。ある人が或いは不特定多数の人間が【上げ馬】や【蛙の生贄】を神事にしたのである。ここが神社神道のいい加減なところなのだ。神社神道についてはまた記事にしたいと思うが、神社における【神事】は神様が決めたことではなく全て人間が決めた儀式なのである。それを恰も神が望み神が決めたことにしている。【神事】とえば多少の事は許されるし神聖な儀式だと思わせることができる。【神事】いう言葉は神社にとってなん免罪符のようなものに感じる。【上げ馬】だって最初は「上げ馬は本来は神に良馬を献ずるものであった」(三重HPより)はずなのに、いつの間にか土壁を越えさせる形になりその為に馬に酒を飲ませたり人間がよってたかって暴行を加える形になってしまった。私は保守思考なので伝統は重んじたいとは思うが馬にせよ蛙にせよ命あるものに暴行を加えたり殺したりするような伝統は改善していくべきだと考える。そもそも生贄を捧げなければ願い事を叶えないような存在を「神」として敬う気持ちにならない。仏教でも生命を捨てるような修行を奨励する経典もあるが、仏教で捨てる命はあくまでも自分の命でありしかも修行として自主的に命を捨てるのであって強制的に他の命を犠牲にする修行はない。むしろ殺生は十悪悪であると仏教は説く。他者の命(時間)や金銭を信仰の名義で提供させるのはインチキ新興宗教だけである。つまり多度大社や諏訪大社のやっている神事はインチキ新興宗教とあまり変わらない思える。神事とか宗教行事だと言っているが、実際は単なる娯楽・観光イベントであるのだから時代に合わせたイベント内容に変更すべきである。伝統と言っても悪しき伝統は淘汰され良き伝統を守っていってこそ美しい文化が育まれるのではないか。長年【上げ馬】を楽しみにしてその伝統を守ってきた地元の人々の想いは理解できる。また地元の人は壁がなくなると【神事】としての意味がなくなると感じている人もいるだろうが、前述の通り【神事】とはあくまでも人間が作った儀式でありルールなのだから後世の人間によってルール変更をしても【神事】に変わりない。そもそも壁は神事に関係ないし天津彦根命がルール変更をしたからといって怒ることはない。昔の人間が決めた儀式を【神事】として残すことは神社神道にとっては重要なことだと思うが、こうした神事はかえって神社神道に対する不信感を生むのではないかと思う。もともと神事なら別に見物人なんていなくてもいいだろうし、観光イベントならなおさら世間に批判を受けたらダメだろう。神社神道による【神事】は見直されるべき時代にきているのではないだろうか。
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