創価ダメだしブログ

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『化義抄』を学ぶ㉒(100~106条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第100条】他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時点心を備うには食すべきなり、既に請せず。又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず、又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには、有りあえたる時、点心を備うるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。

点心とは茶菓子や餅の事。ロサイとはここでは法要前夜の念仏講や題目講の事です。当宗の御僧侶が世間的な用事で他宗の人の家に行ったときにたまたま法事が催されていてその仏事に用意されたいた茶菓等を食べても謗法になりません。それはその家の人に仏事を依頼されて訪ねたわけでなく世間的な用事で出向いただけでそこで出される茶菓も単なる世間的なもてなしだからです。また訪ねた時にたまたま法事の最中で他宗の僧俗と同座することになっても当宗の御僧侶は読経したり布施をもらったりしなけば謗法にはなりません。逆も然りで、世間的な用事で他宗の僧侶が訪ねて来た時に世間的なもてなしをすることは謗法への布施にはあたりません。例えば法華講員が創価顕正会等の他宗や無宗教の人の家に世法の付き合いで行ったときにその家の仏壇に供えられた菓子などを食べても謗法ではなく、逆に当宗信徒ではない謗法の友人・知人に茶菓子を振舞っても謗施にはなりません。このように当宗では謗法厳誡の宗是はありますが世間的な付き合いまで否定していません。それを否定したら折伏ができなくなりますからね。ただし謗法の相手が「このお菓子は仏壇に供えいたから食べたら御利益があるよ」などといって出してきた場合は謗法与同になりますから体よく断って食べないように気を付けてください。余談ですが私は法論の時に限り相手が旧知の仲であっても水の一杯もあげたりもらったりしません。これは私が勝手に当条項を解釈しているだけです。

◇当法華宗の仏事作善の座に禅浄土等の僧が・当方より招待したる理にもならず先方よりの邏斎にもあらず全く俗用にて突然来りたるときは・有合せの点心を供ふる事・是亦謗法人を供養する義にはならず世間仁義の交際に過ぎざるなり。(註解第98条)

 

【第101条】法華宗の仏事作善に縁者親類の中に合力の子細之れ有り、是れは法華宗の人を能開とする故に世事を於いて他宗の合力有りとも世事は自他宗同時なり、法華宗能開と成れば所開の世事は自他同時なるが故に子細なきか云云。

当宗信徒の行う葬儀や法要に際して他宗謗法の親戚などから金品などの援助・協力を受けることは謗法になりません。何故なら施主が当宗信徒ですから御供養をするのは当宗信徒だからです。こうした金品等の援助も世法上のことで世法であるならばそこに自宗・他宗の区別はなく金品等に正謗の違いはないからです。当然、謗法の親戚などが直接、当宗に御供養するのは謗法ですし当宗御僧侶もそうした謗施は受け取りません。但し、謗法の仏事に対する援助は謗法になります。

◇但し世事にあらざる仏法の儀式を以つて遺取合力を為す事は謗法なりと知るべし。(註解第94条)

◇但し、謗法の寺や神社へ参詣するための頼母子講などの援助は、大謗法であります。(日達上人略解)

 

【第102条】他宗の親を其の子法華経を持ち申すべく候、訪って給わる可き由申さば訪うべし、子とは親の姿の残りたる義の故に子が持つは親の法華経を持つ全躰なり云云。

親が他宗謗法の信徒であってもその子が当宗に帰依するので弔って欲しいと願い出るならその親を弔っても構いません何故なら子供身体はその親の現世残った姿だからです。当宗の信徒が願主ならば謗法まま亡くなった親の葬儀を当宗で行うことができます。

 

【第103条】師匠の法理の一分を分かちたる弟子が正法に帰する時は謗法の師匠の正法を信ずる姿なるが故に弟子の望に依って謗法の師匠を訪うべきなり云云。

謗法の師匠から謗法の教えを教わった弟子がその後に正法に帰依したなら謗法の師匠も正法に帰依した事と同じになるのでそのような場合は正法の弟子が願い出れば謗法の師匠の葬儀を当宗で行うことが出来ます。池田大作や浅井昭衛の葬儀は当宗ですることはないですけど、池田や浅井の謗法を軽くしてあげているのは現在の創価顕正会員ではなく、元創価・元顕正の法華講員です。つまり池田や浅井にとって元創・元顕の法華講員こそ「ありがたい」存在なんですよ。学会員や顕正会員は元創・元顕の法華講員に感謝して欲しいモノですね。

 

【第104条】親師匠は正法の人なれども、其の子、其の弟子謗法たらば彼の弟子、子に同じては訪うべからず、但し謗法の弟子、子はイロハずして正法の方へ任さば彼の亡者を訪うべし、但し孝子なくんぱ取骨までは其の家にて訪うべし、其の親の姿が残りたる故に、其の後は謗法の弟子、子の供養受くべからず云云。

「イロハず」とは「関わらない」という事。「孝子」とは正法の信心を受け継ぐ子のこと。親が当宗信徒でも子供が謗法者であれば当宗での葬儀・法事をすることはできませんが、謗法の子供や弟子が「故人の遺志に任せて自分達は一切口を挟まない」と全面的に当宗の御僧侶にお任せすれば葬儀を執行することができます。ただし、その家に正宗を受け継ぐべき子供がいませんので正宗信徒の姿がまだ残る「骨上げ」までで、その後の法要を当宗で営むことはできません。ここに法統相続の重要性があります。もし、法統相続をせずに死んでしまったら年忌法要はもとより盆・彼岸の塔婆供養すらしてもらえない。もしかすると他宗の塔婆を立てられてしまう可能性すらあります。まだ法統相続ができていない法華講員さんは、ここを深く考えてしっかりとお子さん達に話をして法統相続していかないと今世での自分の信心が台無しになってしまいます。

 

【第105条】師範の時、世間の義に依って所領等を知行あらば、其の跡を続く弟子縦い他人たりとも、真俗の跡を続くに子細有るべからず、謗法の所領を領するには成るべからず、其の地頭のそ子の分に当るなり云云。

本条項は、師匠の世間的な財産を血が繋がらない弟子が相続しても問題がないという条項ですが、現在の正宗では御僧侶方が個人的に蓄財して財産を残すような事はしませんので本条項は無実となります。

 

【第106条】謗法の人、子を法華宗に成して彼の子の供養と号して法華経を供養する事有り、子が能開と成る上は子細なく之れを納むべし云云。

謗法の親が当宗信徒である子供の名前で御供養してきたらその御供養は受け取ってもらえます。その逆も然りです。諸事情で、創価や顕正が謗法と知りながら自分は正宗に戻る事の出来ない創価顕正会員でも法華講である自分の親や子供、或いは友人・知人にお願いすれば戒壇大御本尊に御供養することができます。自分の名前を出せなくてもその志は御本仏には通じます。私は、創価顕正会に財務・供養するくらいなら少額でもいいから法華講員に依頼して戒壇大御本尊に御供養をすることをお勧めします。でも本当に良いのは自分が戒壇大御本尊の許に戻る事ですが、その状況になるまではそのような形で戒壇大御本尊に御供養することもできます。

 

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