創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『化義抄』を学ぶ⑮(67~71条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第67条】事の即身成仏の法華宗を建立の時は信謗を堅く分ちて身口意の三業に少しも他宗に同ずべからず云云、身業謗法に同ぜざる姿は、法華宗の僧は、必ず十徳の上に五帖のけさをかくべきなり、是れ即ち誹謗法華の人に軈て法華宗と見えて結縁せしめん為なり、若し又十徳計りにて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼の折伏を心中に油断すれば心業に同ずるなり云云。

 

当宗は天台『理の即身成仏』ではなく、『事の即身成仏』ですから大聖人仏法を信仰する時には、信仰者(正宗僧俗)と謗法者とをハッキリと区別しなければいけません。その為に「身(行動)口(言葉)意(心)」の三業で謗法与同を避けるべきです。その方法のひとつとして御僧侶は十徳(一般の僧俗が着用する着衣)の上に当宗の袈裟・衣を着用することにより身業の謗法与同を逃れると同時に他の人々に結縁しさめることになります。また他の人々を言葉をもって折伏しなければ口が謗法与同となり心に折伏を願わなければ心が謗法与同になります。さて、私達信徒が三業の謗法与同を逃れる方途としては手に数珠を掛け朝晩の勤行を実践することです。特に朝の勤行は四座で広宣流布を観念するので重要です。また『当家三衣抄(六巻抄)』で学びばましたが信徒にとっての唯一の法衣は数珠ですから唱題の時は出来る限り数珠を掛けて唱題する事が大切です。「南無妙法蓮華経」の題目を唱える宗派はたくさんありますから当宗の数珠を掛けることによって信謗に区別をつける事ができます。その為には可能であれば数珠は常に携帯するのがいいと思います。私も数珠と経本セットはいつも持ち歩いています。それによって謗法与同を逃れるだけではなく、数珠の話から未信仰の友人への折伏に繋がり結縁を結ぶこともあります。

 

【第68条】仏の行躰をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし本寺住持の前に於ては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞うなり、信は公物なるが故なり云云。

 

行体即ち信心堅固の人は師弟子の関係なく尊敬していきなさい。また法主上人(本寺住持)の前では末寺の御住職も信徒も等しく法主上人の弟子であると自覚した振舞いをしないさいという御僧侶方への御指南です。なぜなら「信心」は「公のモノ」だからです。「公のモノ」とは簡単に言えば、全ての僧俗は法主上人の弟子でありその法主上人もまた御本仏・日蓮大聖人の弟子であって誰かの特定の人間の弟子ではないという事です。

◇信は一師一弟の私有物にのみあらさるが故に・公場に出でては・一師一弟の小義が且らく消滅するなり(註解第48条)

もちろん、小義においては当然、師弟子或いは先輩後輩の筋目はありますが大義においては等しく大聖人の弟子なのです。創価の組織においては幹部と会員。あるいは会員間でまるで親分子分のような関係を持ち私用を言いつけたりすることがありますがそれは間違いです。また池田大作創価組織や会員を全て自分の所有物が如く振舞う言動は当条項に違背する行体であり尊敬に価する人物ではありません。いずれにせよ、信徒や組織の私物化は決してあってはならないという事です。また、

◇現代の僧俗滔々として所化は行躰を好まず・能化は行躰を強ひざるの傾向あり、学識あるもの・智弁あるもの・俗爵あるもの・財宝あるもの・皆其の恃む所に・りて・自惟孤露・無復恃怙の念薄く・手足の行躰を怠り・千歳給仕の芳蹤を忘れなんとす、故に引文冗長なりといへども・本師の慈訓を拝して自他共に行躰に猛進せん事を期す。(註解第48条)

との日亨上人の御指南にあるように、現代では所化や信徒は化義・行体を煩わしく思う事が多々ありますが(創価のインスタント勤行などまさにコレです)、勤行にせよ給仕にせよ大聖人が我々の為に示してくださった行体ですから精進していく事が大切です。また本条項を読めば、創価の正宗批判の定番の「僧侶から上で信徒が下」などという差別は正宗には存在しないことも明らかでしょう。

 

【第69条】法華宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我が弟子門徒の中にて公家の振る舞いに身を持つなり、夫れとは盃を別にし、しきのさかなの躰にする事も有り、又はなげしの上下の如く敷居をへだてて座席を構うる事も有り、此くの如く振舞うは我が門徒にての心得なり、他宗他門に向って努努有るべからざる事なり云云。

 

広宣流布の暁には法主上人は国主の師匠つまり国師となられるお方ですから、酒の盃を分けたり、一段高い所から弟子・信徒と対面したりなど公家のように威厳ある振舞いをするのです。ただし、こうした振舞いは宗内だけであり他宗・他門の人と同座している時は同様の振る舞いをしてはいけないのです。

◇このような起居動作は・本宗内の僧俗の中にての心得事で膏ます。もし他宗他門の人が同席の時は、世間体の交際にすぎないから、決してこのような儀式をしてはいけません。(略解)

信徒の側からこの御指南をみれば、宗内においては法主上人に対しては常に尊敬の念を持ち接していくということです。創価・戸田会長は法主上人に対してちょっと馴れ馴れしくし過ぎた感はありますが、池田創価や脱落僧は日顕上人・日如猊下を誹謗していますから論外です。そのような人間は本条項を理解していない虚け者といえます。そしてそのような言動をとる信徒は破門されて当然なのです。また創価内の役職を世間でひけらかす罵活動家がいますが、そうした会内の役職などを世間に持ち込む人間も大聖人仏法の化義を知らない愚か者といえます。

 

【第70条】法華宗は何なる名筆たりとも、観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経なり、今の時の諸人は愚迷なるが故にあまた事を雙べては信心が取り難き故に只法華経計りに限りて本尊とするなり云云。

 

当条項は、当たり前のことですが大聖人の十界曼荼羅以外の絵像等を本尊にはしていけないという大聖人仏法の根幹の御指南です。その理由として末法の本未有善の凡夫は色々なモノを本尊に並べると信が何筋にも分かれてしまうからといわれていますが、愚迷でなくても大聖人の十界曼荼羅以外の本尊を並べてはいけません。名人の書いた観音菩薩等の絵像すら不可なのですから、創価凡夫が勝手に改竄コピーした創価本尊などもっての外です。富士日興門流・大聖人門下の正しい御本尊とは一大秘法の戒壇大御本尊を唯授一人血脈相承の歴代法主上人が書写し認可・授与した本尊のみです。創価法主上人の許可など不要といいますが、正宗の法主上人が戒壇大御本尊を書写した御本尊のコピーレプリカを使用しているのにそのロジックは通用しません。まずは他の宗派の本尊のコピーに切り替えてからそのような能書きを垂れて欲しいモノです。

 

【第71条】他宗初めて法華経を持つ時、御酒を持たせ酒直等を持参する時、未だ法華経を持たざる己前なるが故に世事にして仁義に用うるなり、仍って此の方よりも紙扇のさたあり云云。

 

当宗信徒以外の人が、酒や肴を持ってきても謗施となるので御供養として受け取ることはできません。だからと言ってその志を無下に断ることもできませんから、その場合は世間的な儀礼をもって半紙や扇(この当時の一般的な返礼品)などで返礼しなさい。との御指南です。以前、ある団体が大石寺を見学に来てお礼に金銭を差し出してきたことがあり固辞しきれず受け取ったことがありましたが、その時に大石寺側は返礼として羊羹とパンフレットを渡しました。この一件は創価が「宗門は謗施を受けた」「宗門は拝観料を取った」などと当時大騒ぎしましたが、何のことはない。化義抄の当条項に則り対処しただけで何の問題もなかったのです。然るに化義抄など読んだこともない無知な創価員が宗門を誹謗中傷わけで、逆に正式な対処をした宗門を誹謗中傷する創価員こそが謗法なのです。日亨上人も、

◇猶世間の仁義として・紙扇子等の普通の返礼の沙汰の怠るべからざるなり。(註解102条)

と世間一般的な返礼を怠ってはならいとご指南されています。常に羊羹等の返礼品を用意している総本山は素晴らしいと言えるでしょう。戦後生まれの歴史が浅い新興宗教団体の信徒には思いもつかない化義です。

 

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