創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『化義抄』を学ぶ⑨(36~40条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第36条】当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其の文段を横に沙汰する故に智者の所行なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云い立つるの説法なり、是をば当宗にゆるすべきなり、愚者の聞く耳なるが故に云云。

 

本条は「説法」は許されますが「談義」はしていはいけないという御指南です。「説法」と「談義」の違いは、「説法」は師から弟子に縦に学ぶことに対し「談義」とは経文・御書などを理論的に僧侶や信徒同士で横に議論することです。「談義」を禁じているのは「議論」は智者のみが可能であって末法無智の者同士が議論しても仏道に迷いややもすれば謗法を犯す場合もあるからです。日蓮正宗において信徒が御書講義を行わないのは本条に基づいた決まり事です。対して創価顕正会は凡夫の指導者の講義を聞き凡夫同士が経典や御書を勝手に解釈し指導するので、そこから邪義が生まれ謗法が生まれます。また無信仰の人達が大聖人仏法を語るのも同じです。いくら賢そうに大聖人の仏法を語ってもまた非難しても所詮は単なる個人的感想によるものでそれによって他者を惑わし誑かしているに過ぎません。こうした己義を談義することは不法(不仏法)ですが、そのような談義を信用してしまうのも広義の上では本条に違背する行為になります。大聖人仏法の教学とはあくまでも「信」の為の教学です。「信」から離れた「談義」には何の価値もありませんしそれを「教学」とは呼びません。しかし、

◇学匠の自行練磨のためには、二祖日興上人御遺戒の「論義、講説等を好み、自余を交ゆべからざるの事」のごとく、勉学に励まなけれぱなりません。

との日達上人の御指南にあるように自身の信心増進のためには教学に励まなければなりません。教学を蔑ろにしてはダメだという事です。その場合においても御当代や御歴代上人の御指南を元に学ぶのです。また、

◇宗開三祖の談義は自行練磨の講演にして・信徒化導の義にあらず、此を以て宗祖は「小僧達談義あるべし」とて其の研学を励まし・目師は「義科よく読みたゝめ」とて天台講学の名目なる義科宗要をあげ・此を以つて富士に下りて若僧達に談義せらるべしと命じ給ふ、是亦自行講学の為なり、有師本条の禁断は自行講学にあらずして・化他教導の事を指されたるものなれば、少しも先轍に支牾する所なしといふべし。(註解第59条)

との御指南にあるように「説法」は化他行です。「化他行」とは御僧侶においては「信徒教導」ですが我々在家信徒においては「折伏弘教」です。(信徒を教導するのは御僧侶の役目)ですから折伏弘教においては当然「談義」ではありませんので大いに「説法」して良いのです。

 

【第37条】卒都婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立つる所にて、又十如是自我偈を読むべし、是れ又事の一念三千の化儀を表するか。

墓参し塔婆を立てる時には最初に大塔中(正宗墓苑においては大墓碑のこと)で方便・自我偈を読誦してから墓参しなさいという御指南です。こうした師弟子の筋目を守ることが師弟相対した事の一念三千を行体に表すことになります。通常の墓参も同様に墓参の前には菩提寺に立ち寄って方便自我偈の読経をしたり菩提寺が遠ければ自宅の御本尊に読経してから墓参に出かけるように心がけたいと思います。

 

【第38条】一日十五日、香炉に香を焚て天の経の内へ参らすべきなり云云。

昔は、新月の一日と満月の十五日を貴ぶ風習があったのでその両日の初座の勤行(天の経)の時に香を焚てましたが現在はそのような風習は廃れたので本条のような儀式はなくなりました。このように化義は時代によって変遷するものもありますが、それを決めるのはあくまでも唯受一人血脈相承の御当代法主上人であって、池田や浅井といった在家凡夫信徒が勝手に化義を変えるのは謗法です。何故なら、化義はあくまでも化法に即しているからです。御書には在家信徒が勝手に化義を変えていいと書かれていませんし、事実として異流儀以外に勝手に化義を変えた在家信徒は誰一人いません。信徒はあくまでも法主上人が決められた化義に則ることが正しい仏道修行です。

 

第39条】法楽祈祷なんどの連歌には寄り合わず、其の故は宝号を唱え三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云。

 

本条も現在では「法楽祈祷の歌会」などほとんどありませんからそうした会に参加することも無いでしょうが、

◇現代の歌会には此等の旧習なかるべしといへども・其会の底意宗教にあるものには・其会合を避くべきなり。(註解第114条)

との日亨上人の御指南にあるように根底に宗教が絡んでいるような集まりには参加してはいけません。例えば友人同士で開催する世間一般的なクリスマスパーティー程度は謗法ではありませんが教会が主催するようなクリスマスイベントなら避けるようにしましょう。また、法華講員さんにはあまりいないでしょうが、仲のいい創価民などから誘われ創価の「○○展」というようなイベントを見に行ったり、創価民が購入した民音チケットのコンサートを観にいくのも避けましょう。そして公明党への投票依頼を承諾したりすることも当然してはいけません。(笑)創価民は普段は正宗を誹謗しているくせに選挙になると公明党を依頼してくる恥知らずがたくさんいます。法華講は選挙は自由だからといって公明党へ投票してはいけません。何故なら創価は「選挙は信心」と言っているからです。創価の公明支援はその根底は政治でなく宗教だからです。

 

【第40条】帰命の句の有る懸地をかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は鍾馗大臣等の影をかくべきなる云云。

「帰命」=「南無」と書かれた掛軸を掛けてはいけないという御指南です。

◇末代の凡夫は日蓮大聖人の御本尊御影の外に決して帰命礼拝の儀あるべからず、若し持仏堂の外に於いても余の仏菩薩諸天善神等に帰命する幅物を懸けて礼拝する時は・信仰一準ならずして・信念受持の義を成せず、依つて信が二頭になる故なりとて・謗法を誡め給ふなり(註解第4条)

との御指南にあるように大聖人仏法の信者・信徒が南無(帰命)するのは戒壇大御本尊(日蓮大聖人)だけです。「南無」「帰命」と書かれた掛軸を掛ければ信じる対象が二つになってしまいそれは謗法になります。創価民は「南無~」と書かれている掛軸を仏壇に掛けていますけど大謗法です(笑)。

◇信仰に関係の集い歌人柿本人麿の画像や、鐘鐘大臣の画像或は竹林の七賢人や寒山拾得等の画像は掛けて差支えありませんが、やはり同じ画像でも観音、不動、鬼子母神、摩利子天等の如く信仰に関係のある画像は掛けてはいけません。

との日達上人の御指南にあるように信仰と無関係な掛軸なら差し支えありませんが信仰と関係のあるの画像は掛けてはいけません。同様に、池田大作や浅井昭衛の写真を飾るのはもっての外です。かくいう私も創価活動家時代には仏壇に池田の写真を立て部屋には牧口・戸田・池田の写真を飾っていたという恥かしい過去があります(笑)大聖人は

◆無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心人の中の神のごとし、此れにものをならぶれば(中略)わざはひのみなもとなり、(上野殿御返事)

と御教示されています。池田や浅井といった大謗法者の写真など禍をもたらす謗法物で論外ですが、私個人としては家族やペットも写真も信仰とは関係ありませんけど仏壇には並べないようにしています。あくまでも仏壇に御安置するのは御本尊だけにしています。(この件は所属寺院の御住職にお尋ねください)

 

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