「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法体一の本門の本尊なり。此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ち是れ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ち是れ本門の戒壇なり。
今回は『法華取要抄文段』の御指南を学びます。法華講員ならば南無妙法蓮華経が宇宙の法則でも御本尊が幸福製造機などではないことなど百も承知ですが異流義・創価では相変わらず池田大作のインチキ教学の「南無妙法蓮華経宇宙法則論」を語っているのだから笑ってしまいすね。そんな池田インチキ教学を真っ向から否定し破折するのが今回の御文です。池田大作のインチキ教学は何処から出たのかと言えばひとえに池田の圧倒的な教学力不足からです。池田は大聖人仏法の基本である【本因妙】すら全く理解できていなかったです。多くの学会員は一般の無信仰の人々同様に「妙法蓮華経」に「南無」することが「南無妙法蓮華経」だと思っているフシがあります。でもそれは大聖人仏法としては間違いです。「南無妙法蓮華経」とは七字全体で本因妙の人法一体の法体なのです。この本因妙は法華経文上においては寿量品に「我本行菩薩道所成寿命」と説かれています。因みに創価勤行では長行のこの一番大切な南無妙法蓮華経が秘沈されている部分を読みません。創価勤行が意味を為さないのはそれが理由です。さて本因妙とは「境妙」「智妙」「行妙」「位妙」の「境智行位」の四妙円満の法体です。天台大師は寿量品の本因妙の文について「菩薩の時(位妙)」、「菩薩道を行じた(行妙)」「寿命(智妙)」の三妙を述べていますが、妙楽大師はこれを「一句の下は本因の四義に結す」と釈し、日寛上人は更に妙楽の文を「 応に知るべし、智は必ず境有り」(依義判文抄)と会通されています。これは、「能照の智」(対象を照らす智慧)には「所照の境」(照らされる境)があるという当然の道理です。従って「南無妙法蓮華経」とは本因の四妙のことでこれを本因妙といいます。なので法体とは宇宙に遍満する「法」ではなく御本仏(人)と一体なのです。単なる「法」には「行」も「位」もありませんから本因妙になりません。そこで「南無妙法蓮華経」を四妙を立て分けると「妙法蓮華経」の五字は「法」ですから「境・智」の二妙であり、「南無」は「人」ですから「行・位」の二妙になります。故に法を離れて仏はなく仏を離れて法はない。それが「南無妙法蓮華経」です。そしてこの法体である「南無妙法蓮華経」を書き顕したのが本門大御本尊=御本仏の色心二法なのです。さて、「南無」とは「行・位」を表すと説明しましたがこの「位」とは六即に配すれば「名字即」(一念信解)の位になります。『三世諸仏総勘文教相廃立』に書かれている「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時」というのは久遠元初の御本仏が凡夫だったという意味ではなく、「名字即」の位だったという意味で、「名字即(無作三身)」がそのまま究竟即(御本仏)であるという御本仏・日蓮大聖人の本因妙の位妙を示されているのです。それ故に日寛上人は◆「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法体一の本門の本尊なり。と御指南されているのです。本因妙の法体とは何であるかを理解できていれば「南無妙法蓮華経」が宇宙の法則ではなく御本仏の悟りであることが知れるし、御本尊とは生身の日蓮大聖人であることに気が付きます。それを知っていれば「全てが等しく本門の本尊である」「法主上人の開眼は不要」などというドンデモ教学にはならないのです。池田にはそれが理解できなかったから邪義・我見を構えた。なぜ池田には理解できなかったかと言えば御歴代法主上人の御指南を素直に聞けなっかたからであり要するに驕慢だったからです。これは顕正会の浅井親子も同様です。法主上人の御指南を素直に拝していくことが成仏の直道なのですね。そこから外れてしまったならば堕在無間は間違いなしと早く気が付いて欲しいと願っています。
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