創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

六巻抄拝読の為の基礎知識⑦(文底秘沈抄②)

今日は『文底秘沈抄』の2回目。【本門の本尊編】を学びたいと思います。まず冒頭で、

◇夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く、故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず

と「本尊」の定義をしています。即ち「本尊」とは「対境」であるということです。創価民はよく「御本尊は自分の仏界を写す鏡だ」といいますが「対境」というのはそのような意味ではありません。自分の生命に影響を与える存在というのが「対境」です。人生において心(智慧)と行動(行)を決定するのは、何と出会うか(境)によって変わります。つまり「何と出会い何を選ぶか」が人生の幸不幸を左右するといっても過言ではありせん。その根本となるのが本尊(信仰)だということです。故に間違った本尊(信仰)を対境とすればその智慧(心)もそして行(行動)も間違っていく。そこに根本の不幸があるということです。ですから、◇須く本尊を簡んで以て信行を励むべし。と正しい本尊を選ぶことが重要であると日寛上人は言われています。それでは末法衆生の正しい本尊とは何かという事を法本尊と人本尊を説明し、この法本尊と人本尊が一体になった本尊が正しい本尊であることをご指南されているのが【本門の本尊編】の趣旨です。

◇初めに法の本尊とは、即ち是れ事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の御本尊是れなり

まず法本尊とは【事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経であると結論を述べられています。「無作本有」とは作られたものでなく無始から存在してた法のことです。そしてこの後文底独一本門が事の一念三千であることを観心本尊抄の「竹膜を隔つ」の文に沿って解説していきます。「竹膜を隔つ」の文は『三重秘伝抄』で取り上げた「文底秘沈」と同じ事をいっています。「三重秘伝抄」では五重の相対により「文底秘沈」を説明していますが本抄では五重の三段により説明をしています。結論だけ言うと、本迹相対すれば迹門は理の一念三千であり本門は事の一念三千であるからその違いは天地の差がありますが、文底秘沈の事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経と比べれば本迹の差は僅かであるというのが観心本尊抄の「竹膜を隔つ」という文の意味になります。そして大聖人仏法の本尊とは、

◇若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。

であるとご指南されています。ここが一番重要な部分です。創価は本尊を宇宙の法則を図顕化したものと言いますが、これは大きな間違いです。なぜなら「宇宙の法則」とは「諸法実相」のことであり「諸法実相」とは迹門理の一念三千のことです。創価の主張だと「理の一念三千を事に顕した」ことになり、それは大聖人の本尊義ではないのです。大聖人の本尊は【事を事に顕わす】のです。理を事に顕してもその法体はどこまでも理の法体ですからそのような本尊では末法衆生を救済することができません。つまり「宇宙の法則」「宇宙のリズム」では誰も救われないということです。では「事を事で顕す」とはどういことか?この後を読んでいくとわかります。

◇次ぎに人の本尊とは即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり。

次に人本尊は日蓮大聖人であるということを最初に結論されています。ここで問者は大聖人は上行菩薩であって仏であるとは言っていないと反論します(身延みたいです)それに対し日寛上人は、

◇若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹上行菩薩、顕本は日蓮なり。

と外用浅近の辺においては大聖人は上行の再誕ではあるが、内証の深秘から見れば大聖人の本地は自受用身(ご本仏)であり法華経の会座においては上行菩薩と現れ末法においては日蓮として生まれてきた。とご指南されその後そのことを大聖人の徳を挙げて大聖人がご本仏であることを論証しています。外用と内証の立て訳を批判する人もいますが、もしも「外用」が全てというならそれは釈迦仏法の範疇となり釈迦仏法に下種されていない末法衆生の為に大聖人が出現する意味はなくなります。それでは釈迦仏法も虚妄になってしまします。さて、人本尊の冒頭の御文は人本尊に五重玄を含むことを示しています。即ち【久遠元初の自受用報身の再誕】とは大聖人の体玄義。末法下種の主師親】は教玄義。【本因妙の教主】は宗玄義。大慈大悲】は用玄義。【の南無日蓮大聖人】は名玄義。です。このように南無妙法蓮華経の法本尊と日蓮大聖人の人本尊は同じ五重玄が含まれているのです。

◇三には人法体一の深旨とは、謂わく、前に明かす所の人法の本尊は其の名殊なりと雖も其の体是れ一なり。所謂人は即ち是れ法、自受用身即一念三千なり、法は即ち是れ人、一念三千即自受用身なり。是れ則ち正が中の正、妙が中の妙なり、即ち是れ行人所修の明鏡なり

そして最後に、今説明してきた法本尊の事の一念三千の南無妙法蓮華経と人本尊の日蓮大聖人とは「一体」であると結ばれています。それに対し問者は、仏法は「人より法が優れてるのでないか」という「法勝人劣」を主張しますが日寛上人は「法勝人劣」の教えは本果迹仏である釈迦仏法の教えであり本因本仏である自受用身に置いては人と法は一体である勝劣などないということを説明し、この久遠元初の人法一体の本尊こそが末法衆生にとって正しい本尊であることを教え、最後に

◇学者應に知るべし、久遠元初の自受用身は全く是れ一念三千なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり、秘すべし、秘すべし云云。

といわれ【本門の本尊編】を締めくくられています。さて、先ほど「事を事に顕す」という話をしましたが、これはどういうことかというと、事の一念三千とは実際の人としてのご本仏の存在があって初めて「事」となるということです。「宇宙の法則」が仮にあったとしてもそれを実際に悟る人(仏)が存在しなければ机上の空論なのです。大聖人仏法における本尊とはあくまでも「事を事に顕している」のですから「宇宙の法則」を顕すのではなく、ご本仏の色心二法という事を御本尊(事)として顕しているのです。よって御本尊とは大聖人そのもののお姿なのです。その根本の御本尊が戒壇大御本尊です。この戒壇大御本尊=大聖人の心法が唯授一人手血脈相承に流れる法体です。故に歴代上人の書写される本尊は「事の一念三千」として「事の法体」となり大聖人の分身散体になるわけです。どこぞの在家団体が勝手にカラーコピーした紙切れに大聖人の心法が入っている道理はありません。また全ての本尊の法体は生身の大聖人である戒壇大義本尊より流れる来るのですから、その戒壇大御本尊を捨てた謗法者の本尊に法体が通う事もありません。人法一体の義とは御本尊を大聖人様と観ることです。宇宙の法則などと言っている創価民は本尊の基本すら理解できていない無知・無慚な人々といえるでしょう。


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