今月からは、「文底秘沈抄第二」を学んでいきたいと思います。「三重秘伝抄第一」では、事の一念三千の法体が法華経本門寿量品の文底に秘沈されていることを明かしましたが「文底秘沈抄」では、文底に秘沈された事の一念三千の法体とは三大秘法であるという事を明かしその三大秘法を具体的にご指南されています。まずは冒頭で、
◇佛は法華を以って本懐と為すなり、世人は但本懐為ることを知って未だ本懐たる所以を知らず。然らば本懐たる所以應に之れを聞くことを得べけんや。謂わく、文底に三大秘法を秘沈する故なり。何を以って識ることを得んや、一大事の文是なり。
と言われて釈尊の出世の本懐が法華経なのは三大秘法を秘沈しているからであると結論を述べています。その文証として法華経方便品の【諸佛世尊は唯一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもうと名づくるや】の「一大事の文」を挙げます。そして
◇一は謂わく、本門の本尊なり。是れ則ち一閻浮提第一の故なり、又閻浮提の中に二無く亦三無し、是の故に一と言うなり。大は謂わく、本門の戒壇なり。旧より勝るる也と訓ず、権迹の諸戒に勝るるが故なり、又最勝の地を尋ねて建立するが故なり。事は謂わく、本門の題目なり。理に非ざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり、又事を事に行ずるが故に事と言うなり、並びに両意を存す、乃ち是れ待絶なり、於戯天晴れぬれば地明きらかなり、我が祖の本懐掌に在らんのみ。
と「一大事」が三大秘法であることを明かされます。。即ち「一」とは本門の本尊。「大」とは本門の戒壇。「事」とは本門の題目であるということです。
【並びに両意を存す、乃ち是れ待絶なり】というのは、これらの三大秘法の解釈については相待妙と絶待妙の二つの意味があるということです。本門の本尊は【是れ則ち一閻浮提第一の故なり】というのは他の本尊と比べ第一位なので相待妙、【閻浮提の中に二無く亦三無し是の故に一と言うなり】というのが他に比べるものなどない唯一無二という意味なので絶待妙になります。同じように、戒壇は【旧より勝るる也と訓ず、権迹の諸戒に勝るるが故なり】が相待、【最勝の地を尋ねて建立するが故なり】が絶待。題目は【是れ天台の理行に非ざる故なり】が相待、【事を事に行ずるが故に事と言うなり】というのが絶待ということになります。この相待妙と絶待妙の両義は大聖人仏法を学ぶにおいて重要な義になります。例えば創価の本尊義である全ての大聖人の本尊は本門の本尊というのは相待妙の捉え方なんですね。他宗の本尊と比べれば大聖人の御本尊は全て本門の本尊で正しい。それに対し戒壇大御本尊が唯一絶対の法体である本門の本尊と捉えることは絶待妙の捉え方なのです。ですから相待妙の理論で戒壇大御本尊と他の大聖人の御本尊が全て等しいという創価本尊義には絶待妙の義が欠けているので不完全な本尊義なのです。相待・絶待の両義が明らかでないから創価民は大聖人の出世の本懐は分からないのです。【於戯天晴れぬれば地明きらかなり、我が祖の本懐掌に在らんのみ】という日寛上人のご指南にある通りです。そして次に
◇法華取要抄に云わく、問うて曰わく、如来の滅後二千余年、龍樹・天親・天台・伝教の残したもう所の秘法何物ぞや。答えて云わく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり云云。問う、此の文の意如何。答う、此れは是れ文底秘沈の大事、正像未弘の秘法、蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥義此れに過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚お顕わに之れを宣べず、況んや末学の短才何んぞ輙く之れを解せん。
と「法華取要抄」の御文を挙げて三大秘法が、「文底秘沈の大事」「正像(時代)未弘(広まっていない)秘法」「大聖人の出世の本懐」「末法下種の法体」「日興門流の奥義」であることを明かしています。この「法華取要抄」の御文は大聖人が一番最初に三大秘法の名目を具体的に「本門の本尊と戒壇と題目である」と明かされた御文です。しかしながら三大秘法といっても結局は一大秘法である本門の本尊に究竟されます(依義判文抄第三で詳しく説明します)そして【蓮祖出世の本懐】である本門の本尊とは弘安二年ご建立の本門戒壇大御本尊に尽きるわけです。この戒壇大御本尊こそ【閻浮提の中に二無く亦三無し、是の故に一と言うなり】といわれている唯一絶対の御本尊です。戒壇大御本尊が「文底秘沈の大事」「正像(時代)未弘(広まっていない)秘法」「大聖人の出世の本懐」「末法下種の法体」「日興門流の奥義」なのです。この唯一無二の法体を捨てながら、自分達を大聖人門下などと名乗り会員や世間を騙しているのが創価学会と創価インチキ教学を信じている活動家達なのです。というわけで次回は「本門の本尊編」に入ります。