創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

六巻抄拝読の為の基礎知識⑨(依義判文抄①)

今月から「依義判文抄」です。六巻抄その名の通りは全部で6個の「抄」がありますが、前半の「三重秘伝抄」「文底秘沈抄」「依義判文抄」までは「化法」についての御指南になっており、後半の3抄は「化義」についての御指南になっています。この前半の3抄を一つの大きな「抄」と捉えるとこの「依義判文抄」は大聖人仏法の化法における根本・主題が書いてあるいわば【結論】が書かれている「抄」です。今日はキリがいいところまで書きたいので少し長めになりなると思います。

◇明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂えること有り、文証無くんば悉く是れ邪偽なり

最初に「文(証)」と「理(義理)」の関係です。「糟糠を執し橋を問う」とは『大方等陀羅尼経第三』に説かれる求道者の愚行のことで、その内容とはある僧侶が大施会に行く途中の橋について智者に色々と質問しているうちに大施会が終わってしまったという間抜けな話で。「橋」とは「文」の譬えです。「文」の枝葉末節に拘り「理」を得ることができない愚行を説いています。身延学者などのがこのタイプです。御書の真偽をあれこれ論議するばかりで肝心な大聖人仏法にたどり着かないタイプ。闇者です。一方で「文証」のない主張をする創価民もまた「邪偽」です。橋を渡ってもいないのに大施会へ行ったと嘘をいうのが文証無視の創価民です。文とは理を説明したものですから理を知ることができなければ文を読む意味はなく、また文を離れて理を説明することできない。では、正しく「文」を読むにはどうすればいいのかというと「依義判文」して読みなさいというのが日寛上人の御指南なのです。なぜそれが可能であるかというと既に三大秘法という義理が顕されているからです。

◇故に開山上人の口決に慣ならって謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之を忽せにすべからず云云。

そこで本抄で日寛上人が日興上人の「上行所伝三大秘法口決」に倣い法華経の文を「依義判文」するわけです。そしてこの「依義判文」に書かれていることを忽せにしてないけない。と言われています。これを蔑ろにしているのが今の創価です。

◇撰時抄上に曰く「仏の滅後、迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・天台・伝教の未だ弘通したまわざる最大深秘の大法経文の面に顕然なり、此の深法今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布す」等云云。問う、夫それ正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何ぞ「最大深秘の大法経文の面に顕然なり」と言たもうや。答う、一代聖教は浅きより深きに至り次第に之を判ぜば実に所問の如し。若し此の経の謂れを知って立ち還って之を見る則は爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せざること莫し、何に況や今経の迹本二門をや。天台大師玄文の第九に「皆本地の実因実果、種々の本法を用いて諸の衆生の為に而も仏事を作す」と云うは是れなり。故に知んぬ、文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に「経文の面に顕然なり」と云うなり。

ここは、「開目抄」や先の「三重秘伝抄」などでは三大秘法は文底に秘沈されていると説明しているのに、大聖人は「撰時抄」で文の面(文上)に顕然としていると言われているのは何故か?という質問があり、それに対し浅いところから順次判断すれば文底秘沈となるが、文底の義を知りそこから立ち返って法華経を読めばその文上に三大秘法が説かれていると回答します。この「浅いところから順次読む」のは「依文判義」の読み方で相待妙で、「文底の義から読む」のが「依義判文」で絶待妙です。その後、日興上人が神力品の文を依義判文した「上行所伝三大秘法口決」の御文を挙げます。すると問者は、神力品以外にも文上に三大秘法が説かれている法華経の文はあるか?と聞いてきます。そこで日寛上人は「それが聞きたければまずは三大秘法の開合を知らないとわからない」と回答し、そこから三大秘法の開合についての御指南に入ります。

◇問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義を成す、此の六義散じて八万法蔵と成る。例せば高僧伝に「一心とは万法の総体分かって戒定慧と為り、開して六度と為り、散じて万行と為る」と云うが如し。当に知るべし、本尊は万法の総体なり、故に之を合する則は八万法蔵但六義と成り、亦此の六義を合する則は但三大秘法と成る。亦三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり。若し此の開合の意を得ば亦所引の文意を得ん云云。

この三大秘法開合の御指南が、本抄のみならず六巻抄全体を通しても一番大切な部分であり大聖人仏法における根本的な教義です。この御指南の中の「一大秘法」の部分だけを戒壇大御本尊を捨てた自分たちに都合が悪いからと言って勝手に不採用にしたのが今の創価教学です。【若し之を了せずんば経文を引くと雖も恐らくは解し易からじ】と日寛上人が言わるているように、三大秘法開合の義を不採用にしてしまえば御書を読んだところで理解できないのです。いまの創価教学が全く大聖人仏法になっていないのは三大秘法の開合、就中一大秘法の義を用いないからです。そもそも、三大秘法の開合のうち「合」の義とは大聖人の御書に説かれている「南無妙法蓮華経」を会通するための法義なのです。大聖人の諸御書には「南無妙法蓮華経の題目」について「口唱題目」のことであったり「本尊」のことであったりその時や相手によって様々な角度から判じています。これらの諸御書を過ちなく判断するための会通を加えたのが「三大秘法の開合の法義」です。簡単に説明すると、「南無妙法蓮華経」には、「体・用・相」の3種の立てわけがあります。「本尊」は「体」であり「題目」は「用」であり戒壇は「相」です。この南無妙法蓮華経の「体・用・相」が三大秘法なのです。そして題目は「体である本尊の用」であり、戒壇は「体である本尊の相」なのです。よって「題目」と「戒壇」は「体である本尊」に付随しているのです。体を離れて「用」「相」が単独で存在する訳がありません。よって「一大秘法」とは「本門の本尊」であり、そこから三大秘法が開かれるのです。ゆえに日寛上人は【本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり】と一大秘法の本門戒壇のご本尊に三大秘法が総て存在すると御指南しているのです。この誰でも分かる道理を無視して屁理屈をつけて一大秘法義を否定しているのが今の創価なんですね。だから「題目をあげれば功徳がある」などという間違った創価教学を信じてしまうわけです。更にお笑いなのが彼らは「本尊を信じて唱えるのが本門題目でその場所が本門戒壇である」といいます。そんなことは御書のどこにも書いていない。また彼らはある御書に書いてある「法華経の題目」という文を「ご本尊」と変換したりします。彼らがそのような解釈をすることができるのは、すべてこの日寛上人の三大秘法の開合の義を採用しているかに他なりません。それにも関わらず彼らは日寛上人の三大秘法の開合の義を「不採用」にしているのです。これほどの自語相違のインチキ教学はありません。日寛上人のご本尊を改竄して利用するだけでなく、日寛上人の御指南まで改竄して利用する。これがいまの創価なのです。話はそれましたが、この三大秘法の開合の義は非常に大切な法義です。ですから私達が御書や経典を読むときは一大秘法から立ち返って読むことが大切になります。私が「御書は全て戒壇大御本尊の説明です」というはこのような意味です。私達はすでに一大秘法の戒壇大御本尊を知っているのですから「依義判文」して御書等を読んでいくことが大切です。これが分かると「御書」が本当に理解できるようになるんですよ。そうなると創価や顕正のインチキ教学もすぐに見抜けるようになります。私の体験談ですけど本当ですよ。

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