創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題号だけの御書講義⑥(法華取要抄)

今回の題号だけの御書講義は「法華取要抄」です。前回講義した「法華題目抄」は佐前の御書故に権実相対の上から「法華の題目」を選ぶことをご指南された書でですが本抄は今度は「法華経」の中でも「要の法華経」を取ることをご指南されています。法華経とひとくちに言っても法華経には「種・熟・脱」「文・義・意」「広・略・要」と三種九部の立て分けがあります。「熟」とは法華迹門・「脱」は法華本門で「種」は法華文底の妙法、「文」は法華経二十八品・「義」は一念三千で「意」は文底の妙法、「広」は法華経二十八品・「略」は方便品と寿量品で「要」が文底の妙法です。つまり法華取要抄とは「要」であり「種」であり「意」である文底の妙法に信を取るという意味です。文底の妙法とは言うまでもなく南無妙法蓮華経のことですが本抄の本文に、

◆問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり

と具体的に南無妙法蓮華経の体が三大秘法であると明かしています。因みに大聖人が三大秘法の名目を始めて明かされたのが本抄の件の御文です。さてこの「要」とは「結要付属」の「要」のことを指します。「結要付属」とは法華経神力品で釈迦より地涌の菩薩就中上行菩薩日蓮大聖人お一人が受けられた付属の事で「結要」の「要」が付属の中身である法体になります。法華経では、

■「以要言之。如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説。(要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。)

と説かれているこの部分を指します。この結要付属の文について日寛上人は依義判文抄のなかで、

◇以要言之の下は本尊付嘱とは即ち是れ如来の一切の名体宗用は皆本門の本尊、妙法蓮華経の五字に於いて宣示顕説する故に皆於此経等と云うなり。此の本尊を以って地涌千界に付嘱する故に撮其枢柄而授与之と言う、豈本尊に非ずや。

とご指南さてています。「結要付属」とは本尊を付属する「本尊付属」であるという意味です。つまり外用地涌の大聖人が唯授一人で付属された法体は三大秘法の中では本尊だということです。ですから本尊を一大秘法だというのです。「要の法華経」とは「本門の本尊」だということです。さて、この「本門の本尊」は釈尊から上行大聖人が唯授一人で相続した本尊です。そして大聖人もまた日興上人に唯授一人で付属しました。この唯授一人付属は仏法付属の基本なんですね。万人に附属する方法でいいなら釈尊も結要付属する必要がないわけですからね。ですから創価の言う「一閻浮提総与の本尊」というのはその解釈を全く間違えているわけです。法体の本尊付属は結要付属を見れば分かるように唯授一人付属なのです。では大聖人から日興上人に附属されその後歴代上人に附属された本尊とはどの本尊か?といえば、これはもう弘安二年建立の戒壇大御本尊以外には存在しないのです。創価のいうような「全て等しい本門の本尊」ではないのです。そもそも大聖人が結要付属を受けた「本門の本尊」はひとつしかない。それが一大秘法たる戒壇大御本尊です。この大御本尊を捨てて他の本尊が「要の法華経」たる法体の本尊になるわけがないでしょう。ともあれ「法華取要抄」の題号の意とは「要の法華経すなわち法体たる戒壇大御本尊へ信を取る抄」ということです。我々、法華講員の日々の勤行・唱題の姿が「法華取要抄」を身で読んでいる姿です。逆に大御本尊を捨てた創価民は「法華捨要衆」とでもいうべき人々ですね。一人でも多くの創価民さんはそれに気づいて「取要」してくるといいなと思います。


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