創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価学会員の為の御書要文講義⑤(聖愚問答抄)

ただ不二を立てて而二を知らず、「己仏に均しと謂う」の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹をつぎ、この尸那の三階禅師が古風を追う。しかりといえども、大慢は生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ。おそろし、おそろし。

今月の創価の座談会御書も過去に取り上げた御文なので過去記事をリンクしておくので参考にしてください。同じ御文を何度も座談会で繰り返していたのでは創価員の教学力も御書知識も向上しないので今回も創価学会員の教学力向上の為に御書要文を講義するよ。今回の御文は『聖愚問答抄』からの御文です。本抄は上下二巻に分かれており愚人と聖人との問答形式の構成になっている。後段で念仏・真言禅宗の破折をしていて今回の御文は禅宗破折の部分になる。禅思想を簡単に説明する言葉に「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」がありこの言葉は現在に続いてる禅宗の基本思想だ。「不立文字・教外別伝」については創価員もよく聞くと思うが、今回の御文は「指直人心・見性成仏」の破折の文になる。「指直人心・見性成仏」とは「直ちに人心を指し見性して成仏す」という禅思想で「自分の心を見て成仏」すること。自力成仏という邪見でこれが高じると天台・摩訶止観に説かれている「謂己均仏(いこきんぶつ)」(「己仏に均しと謂う」)といって「自分は仏と等しい」と思う邪見に至るのである。まさに破門後の創価教義は禅宗と同じ「謂己均仏」の邪見・邪義の教義なのである。創価員がいう「自分の中に御本尊がある」というのは「謂己均仏」の驕慢謗法である。なぜそのような邪義・邪見に陥るかというと本文に「不二を立てて而二を知らず」とあるように、本来は不二とは「而二不二(ににふに)」のことで「二にして二ならず」ということである。しかし池田創価は「不二」だけ立てて「而二」を知らない(教しえない)。だから「自分と御本仏(御本尊)は不二なのだから自分自身が宝塔である。従って自分の中に御本尊があり自分自身が本尊である。曼荼羅本尊は自分の中にある本尊を映し出す鏡に過ぎない」などという大慢心の我見を起こし驕慢謗法を犯すのである。本文に即して「不二」を正しく説明すると「不二」とは「冥合」のことであり、「冥合」とは「入我我入」のことである。「入我我入」とは日寛上人が「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即わち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり」(観心本尊抄文段)と御指南されているように、本門の題目(御本尊を信じて唱題すること)の修行によって御本尊即我・我即御本尊の御本尊と我という二つが冥合して一つになることである。これを「不二」といい、これが「事の一念三千」なのである。創価のいうような「凡夫本仏論」「自分本尊論」は「而二不二」の仏法の法義を無視し「謂己均仏」を主張している邪見・邪義であり、「不二」も「一念三千」も理解していない池田大作の低レベル教学の賜物と言えよう。こうした池田の邪見・己義は全て彼の驕慢の一念から生まれた。そのような大慢の者は「生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ」と大聖人は言い切っておられる。創価学会員諸氏においては創価の「謂己均仏」の邪義・我見を速やかに捨てて、素直に戒壇大御本尊を受持し堕在無間の未来から即身成仏への未来へと変換してもらいたいと願っている。

■過去記事▶創価教学じゃない御書講義(2020年12月座談会御書・妙密上人御消息) - 創価ダメだしブログ

 

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