創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題目について(美有さんへの回答)

>読んでもわからなかったので教えていただきたいのですが「南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になれるのでしょうか」(御書1402ページ)日蓮大聖人はどう返事したのでしょうか

との質問を美有さんからもらいましたので今日はこの質問に答えたいと思います。実はこれは非常に大事な話です。

ますは美有さんへ、この「妙法尼御前御返事」に冒頭に、

◆先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候須弥山を他方の世界へつぶてになぐる人よりも三千大千世界をまりの如くにけあぐる人よりも無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、末法のけふこのごろ法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし

とありますよね。これは「御書(法門・法義)への質問をすることが大切なこと尊いことだと大聖人が言われているのです。

ですから、今回こうして美有さんがこうして質問してきたことは本当に尊いことなんです。ありがとうございます。

さて、美有さんのご質問は本文中の

◆然れども同じ一句の中にも肝心にて候、南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと

という部分と同じだと思います。「南無妙法蓮華経の題目をあげるだけで成仏できるのか?」ということですよね。

結論から言うと「成仏できる」と大聖人は答えています。その理由としては本文中に

◆此の法華経には我等が身をば法身如来我等が心をば報身如来我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候

法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候、

と言われています。さぁここからが問題なのです。

創価の連中は何かといえば「お題目」といい「題目をあげてれば幸福になれる」といって

「題目(唱題)」に功徳があるように言いますが、それは間違いなのです。

「唱題」というのはあくまでも修行であり「信力」「行力」に属する行為であって「唱題」自体に「仏力」「法力」はありません。

功徳を出すのはあくまでも「仏力」「法力」ですから「お題目を上げれば功徳がでる」という創価の言い分は9割方間違っています。

「題目を上げれば功徳が出る」のであれば「本尊」は不要です。

闇雲に題目を上げていても成仏しないから大聖人は「本尊」を顕したのです。

どうして多くの学会員がこうした思い違いをするかといえば「題目」という意味を「唱題」としか理解できていないからです。

ここで上記にあげた御文をもう一度読んでみたください。

◆此の法華経には我等が身をば法身如来我等が心をば報身如来我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候

法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候、

これを読むと、「唱題」とは「法華経」を読む。行為であることがわかります。

そして法華経を読むと何故成仏するかというと、法華経には「法・報・応」の三身如来の功徳が全て備わっているからです。

これを大聖人仏法の立場で読むと、この「三身」とは「無作三身」のことです。そして「無作三身」とは、

◆伝教云く「一念三千即自受用身自受用身とは尊形を出でたる仏と出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。(御義口伝巻下)

◆されば無作の三身とは末法法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり (御義口伝巻下)

これらの御文を読めばわかるように、ご本仏(大聖人)のことであり、

「南無妙法蓮華経の題目」というのは修行としての「唱題」ではなく「法体」としての「本尊」であるということです。

「南無妙法蓮華経の題目」とは、修行に約せば「唱題行」ですが「法体」に約せば「本尊」のことなのです。

この「法体」=「南無妙法蓮華経の題目」が大切なのであり、これを理解できない創価活動家が多いのです。

「一念三千即自受用身自受用身」「無作三身」「法華経の行者」とはは大聖人のことで「法の体」なのです。

その大聖人の色心二法(色=体・法=心)をそのまま建立したのが一大秘法の戒壇大御本尊です。それが「法体」です。

この「戒壇大本尊」を「受持」する方法が「唱題」という修行ですから、「大御本尊を受持しない唱題」は全く無意味なのです。

先ほど書いた創価活動家の「題目至上主義」が9割方間違っているというのはこういうことです。

いまの創価活動家が唱える題目は「南無妙法蓮華経」の修行になっていませんよね。

そんな題目は「本尊の題目」の義はありません。あくまでも「本門題目」とは「本門本尊」を受持することなのです。

逆に言えば、どこかの支部長がいうように「本門本尊」であっても「信じて題目を上げられないから三大秘法が成立しない」なんていうのは愚の骨頂なんです。「本門本尊を信じられない」時点で謗法なのだからその時点で三大秘法云々する資格なんてないのです。「本門の本尊」なかんずくその総体の本尊たる戒壇大御本尊を受持せずに唱える「南無妙法蓮華経」なんて単なる「呪文」で真言の陀羅尼と変わらないわけですからそのような題目では成仏はしません。

それで成仏すらならさっきも書きましが「本尊」もいらないし、創価に入会しなくてもいい。顕正会でも立正佼成会でも成仏できることになります。それは違いますよね?「南無妙法蓮華経」の同じだけど何が違うのかと「本尊」なのです。

あくまでも「大御本尊(大聖人)」という「法力」「仏力」を受持するための題目でなければ功徳なんて出ないわけです。

◆正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居身土色心倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは

日蓮が弟子檀那等の中の事なり(当体義抄)

この御文にあるように「正直に方便」(創価からコピ掛け軸)を捨てて、「ただ法華経」(大御本尊)を信じ、「南無妙法蓮華経と唱える人」が当体蓮華仏(即身成仏)するわけです。そしてそのような人々を「日蓮が弟子檀那」と大聖人に呼ばれる人々なのです。

いいですか?美有さん、ここがキモですよ。ただ「南無妙法蓮華経」と唱えていても何も変わらない。成仏する理由が全くない。

ましてや大御本尊を捨てたことを正当化するような謗法創価で題目なんか上げていたら悪業を積むばかりなんですよ。

「南無妙法蓮華経を唱えるだけ」というのは、「法体である一大秘法の戒壇大御本尊を受持(信じて)」して「南無妙法蓮華経を唱えるだけで成仏する」というのが大聖人の答えなのです。

この御書は短い御書ですから、何度も読み返してください。

もう一度ポイントを書くと、大聖人が「題目」と言う時には、「唱題」を指す場合以外に「本尊」を指す場合もあるのです。

前後の文をよく読めば、大聖人の言われている「題目」が「唱題」のことなのか、「本尊」のことなのかわかるはずです。

そしてもしも私のこの回答が間違っていると思ったならば遠慮しないで言ってください。

最初に書きましたが、このような「法門・法義」の質問をすることは尊いことです。またいつでも質問してくださいね。


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