末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり
今月の御講拝読御書は『阿仏房御書』の有名な一節でした。池田創価にかかるとこの御文は「自分が大御本尊」などというインチキ講義になってしまいますが教学を体系付けて学んでいれば「自分が大御本尊」などという我見驕慢教学にはなりません。「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」との意義は日寛上人が『観心本尊抄文段』で「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり」と御指南さされているように御本尊と境地冥合することです。ですから「此れより外の才覚無益なり」の「才覚」とは池田が言う「自分が御本尊であると知る」ということではなく、「御本尊を信じて唱題をすること」つまり「本門の題目を唱える事」でありそれ以外の才覚(自分が御本尊であると知るような才覚)は無益であるということです。そして本門の題目の体は本門の本尊(戒壇大御本尊)であると日寛上人は御指南されいます。【七宝】とは【七聖財】のことで一生成仏に欠かせない修行なので【宝】なのです。その宝(功徳)は御本仏日蓮大聖人の体である戒壇大御本尊に備わっているのです。ですから戒壇大御本尊を棄てた創価員は仮に大聖人の御真筆の本尊に祈っても功徳はありません。創価本尊の真偽以前に池田創価員の信心が「ニセもの」なのです。さて今回の御文で不思議難なのは「我が身又多宝如来なり」の御指南です。なぜ「釈迦如来」ではなく「多宝如来」なのか?ここがポイントです。多宝如来は菩薩の時に「十方世界で法華経が説かれる場所に宝塔を湧き起らせて、自ら現れ、その教えを聞き、証明し、讃嘆しよう」との大誓願を立てた如来なのです。「我が身又多宝如来なり」とは、大聖人の説かれた南無妙法蓮華経(法華経)を、「聞・信・戒・定・進・捨・慚」の宝塔を立てて証明し讃嘆する。つまり折伏・弘教をすることが多宝如来なのです。だから私達法華講員は多宝如来としての役割を果たしていく事が重要です。創価や顕正等の異流儀を破折し、縁故の友人・知人達に大聖人の仏法を語っていく。それでこそ大聖人から「多宝如来なり」とのお言葉を頂戴できるのです。経験からいえば折伏は続けていれば必ずできます。話していればいつか成就します。折伏もまた「水の信心」だと思っています。折伏成就に向けて焦らず弛まず本門の題目を唱えながら進んでいきたいと思います。
■関連記事▶創価教学じゃない御書講義(2020年1月座談会御書・阿仏房御書) - 創価ダメだしブログ
★創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。sokadamedasi@gmail.com
▼一日「イチ押し」お願いします!