たまたま仏事をいとなみ法華経を供養し追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来って、法華経は末代の機に叶い難き由を示す。故に、施主もその説を実と信じてあるあいだ、訪わるる過去の父母・夫婦・兄弟等はいよいよ地獄の苦を増し、孝子は不孝・謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し、悪魔の眷属となる。
今月の座談会御書も以前講義した御文なので過去記事のリンクを読んでもらうとして(しかし同じ御文ばかりだな創価の座談御書)、今月の創価学会員の為の御書要文はお彼岸も近いので『唱法華題目抄』の上記の御文を選んでみました。お彼岸と言っても創価では会館の御本尊への献膳もなければ(創価執行部の創価本尊は単なる掛け軸だと思っているのでしょう)塔婆もない広布基金集めが目的の彼岸勤行会というインチキ法要をするだけでそれすら参加しない会員も多数というのが実情。全然、仏教徒らしくないくせに自分達を僧宝とか自称するところが厚顔無恥というか荒唐無稽というかそういうところがカルト信者ぽい。それもこれも全ては創価学会に騙され似非仏教を信仰してしまっているからだろう。創価では「僧侶不要」「塔婆不要」「法要不要」などと大聖人が言っていないことを仏教の本義なんていうウソを会員に吹き込でるからな。むしろ大聖人は塔婆の功徳も言われているし信徒の葬儀や法要などもきちんとされている。それらを全否定してるのが池田創価だ。日蓮正宗時代に創価が他の新興宗教団体より信徒を獲得し巨大化できたのは日蓮正宗として葬儀や法要を執り行えたという事が大きな理由のひとつである。日蓮正宗があったから霊友会などの他の新興宗教団体との差別化ができて大きなアドバンテージを取れたわけだ。当時は「創価学会ならば御僧侶がいるので葬儀や法事がちゃんとできますよ」「創価学会は新興宗教団体じゃなくて伝統仏教の団体ですよ」なんていって折伏をしていたのに今は正宗に信徒を奪われたくない。会員を囲い込みたいがために僧侶不要・法事不要を主張して正宗の仏事を「金儲け」などと誹謗しているのだから呆れかえる。破門後の創価は似非仏教の新興宗教の本領発揮、本性剥き出しで浅ましい。創価幹部・活動家は、仏事をいとなみ御本尊に供養し追善を願う会員のところに行っては「そんなもの必要ない」と適当な嘘を吹いてまわる。特に葬儀の際に遺族をわざわざ説得してまで学会葬を推進する行為などその最たるものである。遺族も学会幹部・活動家のいうことを信じて学会葬をしてしまう。それで故人が成仏できると思っているがその結果は亡くなった親族たちはいよいよと地獄の苦しみを受け、そうとは知らない遺族の学会員はよかれと思ってやったことが逆の結果となり不孝の人となる。それを勧める創価幹部・活動家そして創価学会はまさに悪魔の眷属なのである。と今回の御文で大聖人が言われているのだ。『十王讃嘆抄』にも、「存生の父母にだに尚功徳を回向するを上品とす。況や亡親においておや」「今頼む方とては塔婆の追善計也。相構て相構て追善を営み、亡者の重苦を助くべし」との御指南もある。創価民は創価学会や池田大作に対して「大恩」があるといい「報恩」を口にする。個人的に創価や池田に恩を感じるのは自由だが、創価や池田よりも自身の父母や肉親に対して報恩感謝するが先ではないか。創価に対しては財務や活動でお金や時間を作るのに、自分の父母・肉親の為にはお金も時間も作らない。そして自分だけ「功徳が出た」「幸福になった」と馬鹿はしゃぎしている。こんな乞食信徒のことを大聖人は「我が父母・地獄・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみち牛馬眷属・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん」(四条金吾殿御書)と、自分だけこの世で楽しんでいる不知恩の子孫のことを父母は羨ましく恨んでいると指摘されている。現役の創価民はそろそろ正宗に戻って正しい追善供養をした方がいいと思うぞ。なぜならこのまま創価にいたら次に三悪道に堕ちて苦しむ自分を放置してオモシロ楽しく過ごしている子孫を羨ましく恨みに思うのは自分自身なのだから。特に年配の創価民で正宗批判を繰り返しているヤカラは早く懺悔した方が良い。もう臨終は目の前だろ。
■今月の座談会御書の過去記事はこちら▶創価教学じゃない御書講義(2020年3月座談会御書・兵衛志殿御返事) - 創価ダメだしブログ
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