創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

池田大作の初七日。塔婆供養をする。

今日は池田大作の初七日。池田死亡の報の翌19日に菩提寺で初七日の塔婆の申し込みをしおいたので先程寺院へ参詣し一人で読経・唱題と焼香を済ませてきた。私は池田に対して恨み辛みは毛頭ないし逆に感謝も恩儀も感じていない。池田に対する思いがあるならば怒りと憐れみだ。怒りといっても私憤ではない。大聖人の仏法を我見と邪義で汚しそれを巻き散らかし大聖人仏法を貶めたことに対する怒りである。憐れみは多くの法華講員の感じているソレである。とはいえ私を折伏したのは学会員でありその折伏のお陰で大聖人の仏法を知ることが出来て紆余曲折はあったものの戒壇の大御本尊様へお目通りできるようになったの事実だから池田創価に対しては多少の義理はある。義理を欠くことは大聖人仏法の信仰者としての自身の矜持に反する。『化義抄』には◇学問修行の時、念頃に一字一句をも習い候人、死去なんどの後は、経を読み仏をも立てて霊供なんどをも備えて名をも付け訪わん事、子細に能わず。其の謗法の執情をこそ同ぜざれ。死去の後、執情に同せずして訪わん事、子細なきか。縦い存生たりと云うとも、其の謗法の執情に同ぜずして祈祷をもなさん事、子細なきか。とあり大謗法の池田とはいえ初信の頃には仏法を習っていたのだからせめて初七日くらいは塔婆の1本でも立てるのが義理を立てることだと思ったわけだ。しかし今後も池田創価の謗法を破折していく気持ちに何の変りもない。池田が死んだからといってその謗法を黙って見過ごすことはあり得ない。それもまた私の信仰者としての矜持である。唱題の時も冥福は祈っていない。なぜなら大謗法の池田が冥福することはあり得ないので冥福を祈っても無駄だからだ。ただ無間地獄で塔婆と本門の題目の功徳に触れて、戒壇の大御本尊へ畏怖の念をおこし今世で犯した大謗法を懺悔すれば1日くらいは早く無間地獄から脱出できるだろうと思って題目の回向をした。といっても無間地獄での寿命は一中劫。約3億2000万年だから一日早く脱出したところで焼け石に水だろうが、それでも私からのせめてものはなむけだ。さてSNSなどを見ていると池田に対して回向をし、また私と同様に塔婆供養をしている元創価法華講員が多いことに気づかされる(浅井昭衛の時の元顕正会法華講員も同様だった)。日顕上人の御遷化の時に日顕上人に回向した学会員はリアルでもネットでも私の知る限りでは皆無だ。もちろん創価のインチキ回向なんてしてもらっては迷惑だからしなくていいのだが、そうした話は別としてこういうところに日蓮正宗創価学会の信仰の違いが如実に表れていると感じる。法華講員は池田に対する思いは各自色々あるだろうが、どんな思いであろうと池田に対して塔婆を立てたり回向したりしている。学会員にはそうした心は全くない。普段は人の振る舞いとか心こそ大切などと大聖人の御指南を偉そうに言っているが、藤原弘達氏が亡くなった時にも祝電を送る様な宗教が創価学会である。人として狂っているし信仰者としてなら猶更で、こういう人間を大量に生みだす創価信仰は正しいとはいえない。そこだけをとっても私は創価から正宗に移籍して良かったと思う。創価にいたら六根清浄なんて夢のまた夢でむしろ六根不浄になるばかりだ。それが池田創価の言う人間革命なのだろうか。法華講員は池田の謗法は謗法として厳しく破折するし池田は無間地獄行きと断言するが決して誹謗中傷ではなく大聖人の御聖訓に照らしてそういっている。しかしその反面で救いの手も差し伸べる人が大勢いる。信仰者とはかくありたいと思うし、それが日蓮正宗の信仰の素晴らしさだと感じる。また正宗の僧俗が池田の死を嗤って喜んでいると思っている学会員もいるかもしれないが我々は日顕上人の御遷化の時に大はしゃぎしていた下衆な学会員とは違う。そもそも池田の死なんてお寺ではほとんど話題にもなっていない。創価の話題なんて正宗ではほとんど出ない。学会員を折伏してあげましょうとはいうが創価の悪口なんて正宗の御僧侶方は言わないのだ。ともあれ池田の塔婆を立てて回向したので私的には池田創価に対する義理は果たすことができてスッキリした。2度と池田の塔婆を立てることはないだろう。今後は池田の残した大謗法団体創価学会の謗法者達を折伏し正信に目覚めさることが池田の罪業を減らすことであり池田への供養となると思っている。

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