創価ダメだしブログ

創価学会やその他異流義破折と日蓮大聖人の仏法の解説、宗教・思想を考察するブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

第九・歓喜の歌。文化と信仰の線引きが出来ない池田創価学会員。

ベートーヴェン「第九」の演奏会が年末の風物詩のように言われるているが近年ではコンサートも減少傾向のようだ。年末の「第九」演奏の歴史は戦後からだし、クラシック音楽は世間的にも人気のある音楽ジャンルではないのでメジャーなイベントまで発展しないでこのまま廃れるかもしれない。「第九」というと池田大作が『歓喜の歌』をドイツ語で合唱する提案をし、これに正宗が『お尋ね』文書で「原語(ドイツ語)の詩は、フリードリヒ・フォン・シラーという詩人の「歓喜に寄す」という詩で「歓びよ、神々の美しい輝きよ、楽園の娘よ、我ら炎のごとくに酔い、天の汝の聖殿に足をふみ入れる……」等と訳され、キリスト教の神を讃歎した内容になっております。したがって、これを原語で歌うということは、外道礼讃となり、大聖人の「さきに外道の法弘まれる国ならば仏法を・もつて・これをやぶるべし」との御聖意にも反し、下種本門大法の尊い信者が、キリスト教を容認・礼讃することになると思いますが、それでもなおかつ当然と思われるのですか、お伺いいたします。」と問いただしたことに反発して宗門を「文化性も無視した宗門の閉鎖的独善体質」などと批判し、いまでも学会員が宗門批判に使うネタだが、宗門は「現在歌われている岩佐東一郎作詞の「よろこびの歌」自体には宗教色はまったくなく、結構だと思いますが」ベートーヴェン「第九」自体を否定したわけはなくシラーの作詞を原語で歌う事が謗法に繋がると言っているだけだ。例えば正宗では神社や他宗寺院を見学することは禁止ていないが、そこの神仏に祈ったり布施をすることは謗法と戒めているのと同様で、第九の演奏したり聴いたり宗教性の無い歌詞を歌う事ではなく、キリスト教を礼讃する歌詞を歌う事が謗法に当たると言っているのだ。信仰心が無くても神社や他宗の寺院で礼拝するのは謗法であると同じ意味だ。そもそも「謗法」の定義を信徒が勝手に判定するのが間違っている。例えば趣味でコーラスサークルに入っていてそこで『歓喜の歌』を原語で歌う事になった時には、法華講員(大聖人信徒)であれば御住職に判断を仰いで行動するのが富士日興門流の正しい信心のあり方である。それを池田は当時総講頭の役職でありながら御僧侶に判断を仰がないばかりか宗門の判断に反発し勝手に謗法の判断をし、且つ学会員にその我見指導をして謗法教唆という二重の謗法を犯しているのである。しかも己を正当化するために指導した宗門を批判する有様である。その宗門批判も「信仰」レベルの話を「文化」という世法に論点をすり替えるという詭弁を使った論法だ。正宗の僧俗でもクラシック音楽や美術、日本文化の茶道などが好きで趣味としている人は多い。従って他宗・他教発祥の文化に触れる楽しむことを正宗は否定していないし謗法だとは言っていない。文化・趣味と信仰の線引きを弁えるべきだと言っているだけである。信徒は御住職などの指導を受け余計な謗法を犯さないように用心して文化・芸術を楽しむのである。それは謗法厳戒を宗旨とする富士日興門流と当然の事である。それに他にも文化的活動は山ほどあるのに『歓喜の歌』の合唱を敢えてする意味はどこにある?日本文化ならまだしも外国文化で日本では100年にも満たない歴史しかなく、しかも年末に「第九」演奏する風習があるのは日本だけで欧米文化にはない。その日本ですらあまり知られていないイベントを宗門に反抗してまで強行する事は広宣流布の観点からも無意味であり単に池田のエゴでしかない。そんな池田の謗法信心を受け継いだ学会員や公明党議員は今では祭りで神輿を担ぎ選挙の必勝祈願で神社で柏手を打っても「文化・伝統だから謗法ではない」と勝手に判断し謗法を重ねているわけだ。大聖人が謗法の恐ろしさを口を酸っぱくして御指南されているのに完全に無視である。ともあれ文化と信仰の線引きをできない池田創価学会員は文化的にも信仰的にも無知性・無信心である。そもそも創価学会員にクラシック音楽等の文化を楽しむ教養のなんてないだろう。知性や教養があればとっくに創価なんか退会してるだろう(笑)

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ

 

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