富士門流史
総本山の御影堂を建立御供養した敬台院は、文禄元年(1592年)下総古河藩主・小笠原秀政と登久(とく)の長女として生まれました。父・秀政は信濃の守護職大名であった小笠原氏の末裔で、母・登久は徳川家康の長男・信康と織田信長の長女・徳姫の子ですので…
前田綱紀公は寛文元年(1661年)に加賀藩の第五代藩主になりました。加賀藩の江戸藩邸の近隣に常在寺があり、その縁で綱紀公は常在寺に参詣し日精上人の説法を聴聞し、日蓮大聖人様の教えに触れ富士大石寺の信仰の素晴らしさを知り、家中の人々に常在寺に参…
私は自家用車で総本山に御登山するのですが、最初に目に飛び込んでくるのが『三門』で、大石寺のランドマークだと思っています。この三門に御供養したのが、徳川幕府第六代将軍家宣の正室の天英院殿です。 ■関連記事▶私の『大石寺ガイド』②三門 - 創価ダメだ…
前回、天璋院篤姫の記事を書きましたが、その天璋院を折伏したと思われるのが今回の南部信順公です。南部信順(なんぶのぶゆき)は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しまずしげひで)の十三男として、1814年(文化11年)に生まれました。兄姉の三女の茂姫は、徳川1…
前に日蓮大聖人御在世の御信徒列伝を書きましたが、今回から大聖人滅後の大石寺の御信徒の紹介記事をシリーズで書いてみたいと思います。第1回目の今回はNHKの大河ドラマにもなった天璋院篤姫です。(あの頃の宮崎あおいは可愛かったなぁ)天璋院は天保六年…
明治時代に、横浜に会員70人ほどの身延派を信仰する蓮華会と称する集団があり、この蓮華会と大石寺末・久遠寺檀徒の本門講との間の論争を『横浜問答』といいます。明治15年8月、蓮華会の会員が本門講員に折伏されたことが契機に、蓮華会の会長・田中巴之助(…
明治時代の富士大石寺と什門(顕本法華宗)と公開問答を『富什問答』といいます。明治33年10月25日、什門の田辺善知は、富士との論争を一宗を賭して実行したいと常泉寺住持・土屋慈観師(のちの日柱上人)に伝えてきました。この年は大石寺ではお会式につづ…
霑志問答は、大石寺第52世日霑上人と重須本門寺日志との書簡による往復書簡による問答で、別名両山問答ともいいます。この問答は、文化6年5月に日量上人が著わした『富士大石寺明細誌』(宝冊)に対し日志が邪難を述べてきたことが切っ掛けです。日志は…
江戸後期の大石寺信徒の永瀬清十郎は宗学抜群で諸国を弘教しました。清十郎は尾張での弘教後は会津若松で論陣を張り、身延、什門、隆門等、日蓮宗の在家、出家を一堂に集めては破折していました。それを聞いた者達は対応策を種々相談しましたが、三年程前に…
最近では創価も顕正もすっかりヘタレてきて法華講との法論から逃げまくっていて、たまにそれっぽい話になっても、法門・法義の話はサッパリで無根拠の与太話か低レベルの教学モドキばかりで元広宣部の私としては実に情けなく感じます。日蓮正宗は大聖人・日…
日興上人が大聖人の御遺骨を奉持して身延に入山したのは弘安5年10月25日ですがその後、弘安8年に日向が身延に入山すると身延は謗法と化しついに日興上人は身延を離山することになります。(日興上人の身延離山史については過去記事をお読みください)日興上…
日蓮大聖人が身延に入山するとともに日興上人の富士地方の積極果敢な折伏が開始されその教線は拡大しその結果熱原法難が惹起します。(熱原法難については過去記事をリンクしましたのでそちらを参考にしてください)熱原法難の報告を受けた大聖人は時光に急…
大聖人の御在世の素晴らしい御信徒達は大勢いますが、私の中では筆頭はやはり南条時光です。大石寺の開基檀那だということもありますが、(池田創価は大石寺周辺の広大な土地を寄進したと偉そうにしていますけど、元はその土地は全て最初に南条時光が寄進し…
大田乗明(大田五郎左衛門尉乗明)は、三善康連の次男として日蓮大聖人と同じ年の貞応元年(1222)に生まれました。祖父は三善康信で源頼朝に仕え初代問注所の執筆(現在だと裁判所長官)に任命された人で、父・康連そして乗明も問注所の役人で、大田家は常…
富木常忍と聞くと真面目で几帳面なお堅いエリートで資産家のオジサンというのが私のイメージで、こんな人が父親だったら躾が厳しくて私が子供だったら耐えられないかも?なんて妄想したりしますが、富木五郎胤継は若宮(現・千葉県市川市)の領主で大聖人外…
佐渡で一番最初に大聖人の信徒になった阿仏房の出自については諸説ありますが、現在の所は佐渡土着の武士であるとされています。妻の千日尼と共に佐渡流罪中の大聖人を外護し大聖人が身延に入られてから阿仏房は高齢の身で3度身延の大聖人の許を訪ねていま…
今回は池上左衛門太夫康光の子息で、兄・右衛門太夫宗仲、弟・兵衛志宗長の池上兄弟の話です。池上家の由来は記録によると摂政・藤原忠平の三男・忠方が平将門の乱平定の為に京より下向し武蔵国千束池の上に住したことから池上の名を氏にしたことに始まると…
日蓮大聖人には女性信徒も大勢いましたが中でも個人的に一番なのが、乙御前の母の日妙聖人です。幼い乙御前をつれて佐渡の大聖人の許を訪ねるその純真さと強さは間違いなく私の中では「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」です(笑)。そんな日妙聖人の氏素性はハ…
佐渡流罪が赦免された大聖人は文永11年(1274)3月26日に鎌倉に戻り同年4月8日に平左衛門尉と対面し3度目の国家諌暁をするも聞き入れられず身延に入山されますが、生きて2度とは帰れないといわれた佐渡流罪から大聖人が戻られたことは門下一同には大きな喜…
富士宗門史として今回から日蓮大聖人御在世の信徒の略伝をかいていきたいと思います。独断と偏見でトップバターは四条金吾です。四条金吾の正式名は【四条中務三郎左衛門尉頼基】といいます。四条は性、三郎は通称、頼基は名で中務は父・頼員の官名(中務少…
波木利日円の謗法により日興上人が身延離山の決意をされた状況と心情は、日円の子息である正信の信徒である原殿に宛てた『原殿御返事』に詳しく書かれいます。聖典にも掲載されているので聖典を所有している方はぜひ一読してください。当抄の内容は最初に身…
日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日…
弘安7年10月13日に身延久遠寺において他の老僧が不参のなかで日蓮大聖人の三回忌法要を執り行った日興上人がその直後に、上総国の美作房日保師に書かれたのが『美作房御返事』です。同書の詳細については別に機会に譲りますが内容を要約すると「鎌倉方…
大聖人の御葬儀と初七日法要を終えた日興上人は、弘安5年10月21日に大聖人の御遺灰を抱いて池上を出発し、27日に身延に入山されました。 ◇御身骨を身延山に移し奉る事。或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、2…
昨年2月に日興上人の略伝を書きましたが、日興上人の御生涯で一番の出来事といえばやはり身延山離山からの富士大石寺開創だと思います。そこで日興上人の別伝として数回に分けて日興上人の身延離山の略伝を書きたいと思います。それに先立って日興上人の御…
ここまで江戸時代を中心に大石寺の法難の歴史を記してきました。江戸時代以降にも様々な法難がありました。戦時中でいえば『弾正会』の創始者である藤本秀之介氏(後に出家し蓮城と名乗る)の投獄・獄死一応は創価学会の牧口・戸田の両氏の投獄・獄死も日亨…
金沢法難は日亨上人が富要集において『長』と記したように享保8年(1723)より江戸幕府崩壊までの約100年間の長期間に亘る法難です。領内に末寺が無い事から国禁(藩内における信仰の禁止)となり、その結果、閉門・閉戸・入牢・扶持離れ等の弾圧が続きまし…
江戸末期の弘化3年~4年にかけて惹起した『弘化度の法難』は、法難が惹起した地名から『猫沢法難』とも呼ばれている法難です。(また『猫沢問答』とも呼ばれます)。当時の柚野(ゆの)村(現静岡県芝川町)には、大石寺末の蓮成寺がありその近辺に一致派…
八戸法難は江戸時代末期の弘化元年(1844)に仙台・仏眼寺の玄妙房日成師による八戸弘教によって惹起した法難です。日成師は天保13年(1842)に奥州弘教に為に長横町の阿部喜七宅に投宿されその滞在中に、喜七と娘婿・阿部豊作を教化し、さらにこの両名の折…
文政5年(1882)に大石寺信徒・永瀬清十郎の名古屋弘教によって惹起した法難が『尾張法難』です。清十郎は元々は日蓮宗一致派信徒でしたが大石寺の正義をしり日量上人の俗弟子となった人です。文政5年より自信がかつて日蓮宗を布教した名古屋の地の縁故の…