創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

弁惑観心抄(日應上人)要文⑨第2章39節より

そもそも我が門所立の境智において重々の秘説あり。一には、本地難思境智冥合不渡余行直達正観事行の一念三千の大御本尊は境なり、この本尊に向かい奉る我らは智なり。これすなわち、末法下種益の境智なり。二には、右に挙げるところの境妙たる本尊一幅の上において、また境智を論ずれば「南無妙法蓮華経 日蓮判」は境なり、「釈迦・多宝」等は智なり。三には、首題の一仏に境智あり。また「日蓮判」とあそばす宗祖の当体において境智あり。また、日蓮、日興および我ら衆生との間において境智あり。

39節は、御本尊首題の『南無妙法蓮華経日蓮』は境智の妙法であるという正宗教義を否定する日守に対する破折です。富士日興門流の相伝法門に無知な日守に対して、血脈血脈相承における正宗法義における境智の会通を論じているのがこの御指南です。相伝による境智の会通とは第一に御本尊は境で、この御本尊に向かって題目を上げる我等は智。勤行唱題そのものが境智冥合の姿です。第二に一幅の御本尊を見れば、中央主題の「南無妙法蓮華経日蓮」が境で、釈迦多宝等の十界の衆生が智となります。つまり御本尊そのものが境智冥合の姿になります。そして第三の部分がこの節で問題になっている部分です。■首題の一仏に境智あり。とは「南無妙法蓮華経」に境智含まれるということで、「妙法蓮華経」が境で「南無」が智、■日蓮判」とあそばす宗祖の当体において境智あり。とは、「日」が境、「連」が智。■日蓮、日興および我ら衆生との間において境智あり。とは、ひとつは「日蓮」が境、「日興」が智。そして、「日蓮日興」の久遠元初の三宝が境、「我ら衆生」は智。またここには書かれていませんが、久遠元初三宝一体の日蓮大聖人の色心二法の体である、「本門戒壇大御本尊」は境で、その戒壇大御本尊を根源とする「唯授一人血脈」が智なのです。このように、ひと口に「境智の二法」と言っても幾重にもその解釈があるわけで、その深義は日興上人以来唯授一人血脈相承を受けられた御歴代法主上人に法門相承されてきて歴代法主上人は都度衆生に合わせて説法されてきたのです。従って日守のような門外漢には到底分かるはずがないのです。これは現代で言えば創価顕正会、或いは身延や浅識のアンチ正宗の人間も同じです。彼らがどんな能書きを垂れて自己を正当化し大石寺の教義を批判しても、不相伝の輩には大聖人仏法の甚深の法門を知ることすらできず、我見・邪義を自慢しているに過ぎません。さてこの境智の二法とは、【境=法・智=人】という事で、境智冥合とは換言すれば人法一体ということです。そこで改めて■首題の一仏に境智あり。また「日蓮判」とあそばす宗祖の当体において境智あり。の御指南を解説すると、南無妙法蓮華経の中に人があり。日蓮判の中に法があるということですから、前者(首題の一仏)が仏界所具の九界で、後者(日蓮判)は九所具の仏界ということを意味していて、これで正しく十界互具が顕れ、事の一念三千が成立し末法下種の本尊となるわけです。このように、御本尊は御本仏の色心二法であり生身の如来日蓮大聖人)と見ることが正しい信力なのです。「宇宙の法則」「根源の法」という「法」の側面だけしか見ずに、人法体一(人法一箇)を否定する創価教学の邪義・欠陥はそこにあります。いくら行力が強盛であろうと、信力が間違っている創価・顕正の会員達には、御本尊の仏力・法力の力用は顕れることはないのです。

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