今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり
今月は大聖人の立宗の月にちなんで『諫暁八幡抄 』の御文を御講にて拝読しました。本抄は弘安3年12月に身延において認めれらた御書で総本山大石寺に御真筆があります。日顕上人は御真蹟の末尾に「建武第三丙子六月六日読誦し奉り畢んぬ日道判」 と、日道上人の御筆跡で認められていることを示されたあと、「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基もといとして御書の拝読が種々の形で行われたことを知る証左となる」 (昭和57年御霊宝虫払大法会御書講の砌)と御指南されています。さて今回拝読の御文は法門的な内容ではないので「読めば分かる」という御文ですが、このように「読めば分かる」御文こそどう読むか何を感じるかを問われるわけです。御文の趣旨としては建長5年の立宗宣言から28年大聖人は他事なく一切衆生に南無妙法蓮華経を弘通してきたのは慈悲であるということですが、慈悲には衆生縁の慈悲(小慈悲)、法縁慈悲(中慈悲)、無縁慈悲(大慈悲)と三種類あります。このうちの大慈悲は仏の慈悲です。今回の御文に書かれている「他事なく折伏をする」という大聖人の御振舞いこそが御本仏の大慈悲です。「他事なく」とは自分のことなど思わないでということです。「不惜身命」ですね。我々凡夫にはこの他事のない(自分都合を挟まない)信心はできないのです。むしろ自分の事が中心です。折伏をするにしても心のどこかで自分の功徳を期待してまう。いやむしろ自分の功徳の為に折伏をする。だから願いや望みがなければ折伏しない。もちろん自分が幸福になるための信心であり大聖人も我々が幸福になることを望まれていますし、何よりも我々凡夫は大慈悲を持ち合わせていませんから自分の願いを叶えるために信心をすることは間違っていません。しかし日蓮大聖人の弟子檀那としてはそれでは余りにも情けないし三宝に対して報恩感謝がありません。とはいっても大慈悲はないし・・ではどうべきかという事を日寛上人は『観心本尊文段』で「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」とご教授して下っています。自分事でもなんでも理由の如何を問わず「折伏成就したい」と唱題行に励むことです。唱題行に励む時に入我我入の法義によって自分に御本仏の大慈悲が顕れるのですから。日如猊下や御住職が折伏を実践するにあたって大切なのは唱題であると重ねて御指南されるのは慈悲行である折伏を成就するためには御本仏の大慈悲の仏力を我が身に顕現させることが一番の要だからです。私もまだまだ折伏をしたい友人知人が大勢いますから日々の唱題行に精進して折伏成就できるように頑張りたいと思っています。
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