創価ダメだしブログ

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御講拝読御書研鑽(2022年10月・撰時抄)

衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮法華経を信じ始めしは、日本国には一渧一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は、これよりほかに、またもとむることなかれ。

 

今月の御講御書は、十大部のひとつの『撰時抄』です。冒頭に『夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし』との御指南があるように仏法のとって一番重要なのは【時を知る】ということです。ここで言う【時】は世間一般的に言われてる時ではなく、正・像・末法の【仏法の時】のことです。時をしることが最重要な理由は、衆生の機根は時によって決まり機根によって出現する仏が決まり修行が決まるからです。

◆仏法は摂受・折伏時によるべし(中略)正法は、一字一句なれども、時機に叶いぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶うべからず。(佐渡御書

と御指南にあるように、仏法の修行の全ては摂受か折伏に分類されます。そして必ず「時」に合致した修行でなければ成仏することはできません。末法である現在は、

◆しかるに、摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下ろして春菓を求むる者にあらずや。鶏の暁に鳴くは用なり、宵に鳴くは物怪なり。権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして、山林に閉じ籠もり摂受を修行せんは、あに法華経修行の時を失う物怪にあらずや。 されば、末法今の時、法華経折伏の修行をば、誰か経文のごとく行じ給えしぞ(如説修行抄)

と御指南にあるように『折伏』となります。法主上人や御住職が「折伏」を繰り返し言われるのはそれが御本仏・大聖人が示された末法衆生にとっての修行だからです。そのような御住職などの「折伏」の御指南を聞き流したり反発したり、御僧侶に向かって「自分がすればいいだろう」と御僧侶に悪態をつく法華講員さんも稀にいますがそれらは全く的外れの考えです。折伏をするのは自分の為です。折伏せずに自身の現当二世の成仏はありません。それは御僧侶であろうと誰であろうと同じです。ですから、折伏しない誰かを批判するは全く無意味なのです。他の人が折伏しようがしなかろうが自身の成仏には何の関係もないからです。確かに自宅で勤行唱題に励み寺院や御山に参詣することも何もしない人と比べれば尊い事ですが、「折伏」の実践がなければ真の意味で大聖人の仏法を行じているとはいえません。そこで今回拝読した御文ですが、日蓮法華経を信じ始めしは、日本国には一渧一微塵のごとし】とは、大聖人が南無妙法蓮華経の題目をただ一人唱え始めたという事で、大聖人が末法の御本仏であるという御宣言でもあります。正像二時においては、衆生の機根は本已有善(過去世に釈迦仏に下種を受けた衆生)ですから釈迦仏の化導で成仏できすますが、末法衆生である我々は本未有善(下種を受けていない衆生)の機根ですから末法の御本仏たる日蓮大聖の化導でなければ成仏できません。大聖人こそが末法の時に適った仏様なのです。そして、法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は、これよりほかに、またもとむることなかれ。】と言われているように、御本仏・日蓮大聖人の化導(成仏の道)は、法華経(南無妙法蓮華)を【唱える】ことと【伝える】こと以外はないとの御指南です。【唱える】こととは唱題行であり【伝える】こととは折伏行ですね。このように大聖人の仏法の修行は全てこの自行化他の題目に含まれます。今回の御文と同意の御文に『諸法実相抄』の

日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし

との御文があります。自身の現当二世の成仏と御本仏日蓮大聖人の大願である一天四海広宣流布成就の為に大聖人の信徒として自行化他の題目、特に折伏行に精進したいと決意も新たにしています。

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