創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2020年1月座談会御書・阿仏房御書)

末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり

2020年最初の座談会御書は「阿仏房御書」です。阿仏房からの法華経の宝塔に関する質問に対する返書で別名「宝塔御書」と呼ばれ短い御書だけど本尊義が書かれている重要な御書です。とはいえもうこの御書も何度も座談会でやってて同じ御書を座談会で使いまわすのは2020年も変わらないスタンスのようで。たまには今までやったことのない御書を取り上げればいいのにと毎回思うよ。さて拝読範囲の冒頭に「末法に入って法華経を持つ」と書いてあるけど最近の創価民って「法華経」オシが強くなったような気がする。昔はあまり「法華経」って言わなかったのに最近の創価民は何故か「法華経」という言葉を多用する。まぁそれも大御本尊を会員から引き離すためにあえて「法華経」と言うようにしているのだろう。が当然のことながら末法法華経を持つことに何の意味もない。

◆今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし(上野殿御返事)

との御文にあるように末法の本未有善の衆生には脱益の文上法華経には何の利益がないわけだ。今の創価民て基礎教学も怪しいレベルに落ちてるよね。本文にも上記の「上野殿」にも書かれているように末法法華経とは南無妙法蓮華経のご本尊のことだ。この南無妙法蓮華経のご本尊を信じて題目を上げる(受持する)男女は貴賤上下を問わず宝塔であるというのが阿仏房への答えになっている。聖教新聞に大作センセの指針では(以下▼太字は聖教新聞から引用)

▼ 鏡がなければ、自分の顔を見ることができません。まして「己心の宝塔」は、それを見る明鏡がなければ誰も見ることができない。そこに、大聖人が御本尊を顕された理由もあります。

と書かれていた。御本尊を「明鏡」(鏡)に例えるのは創価民幹部が愛用しているパターンで○○のひとつ覚えでこればかりいうヤツがいるがあくまでも御本尊は明鏡というのはご本尊の持つ「用」のひとつであって全てではない。だが今回は折角なので大作指針に即して説明していく。聖教新聞に掲載されている大作指針は間違っちゃいない。間違っちゃいないが肝心な部分がスッポリ抜けている。聖教にも引用されたが御義口伝に

◆今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり

とご本尊が明鏡であり宝塔であると書かれている。日寛上人も「観心本尊文段」で観心本尊を指して、

◇これ則ち蓮祖出世の本懐、 本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり

とご指南されている。で問題はここからで、大聖人の出世の本懐で三秘随一の本尊は具体的にはどの本尊なのかと言う部分で、創価は大聖人のご真筆&書写の本尊全てなんて言っているが日寛上人はそんなこと言っていない。同じ「観心本尊文段」で、

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり

と弘安二年の戒壇大御本尊が三大秘法ちゅう随一の本尊であると明確にご指南されている。「文底秘沈抄」でも、

◇教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、

と「観心本尊文段」と全く同じご指南をされている。つまり明鏡中の明鏡とは戒壇大御本尊を置いて他にはない。「一生成仏」に曰く、

◆深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。

と仰せの通り、「深く信心を発す」対象は大御本尊をという明鏡に対して深く信心を発することをいい、大御本尊を信じて唱題するのことを「みがく」という。聖教掲載の「御義口伝」の御文の下に、

◆所詮浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり浄明鏡とは信心なり

と書いてあるのはこのことだ。よって大御本尊を捨てた創価民たちの本尊には「明鏡」としての「用」は備わっていない。御本尊に備わる「用」とはすべて大御本尊に備わる「働き」なので大御本尊を捨てれば真筆と雖も本尊としての「用」は備わらない。当然「用」だけではなく「体」も「義」も備わらないわけだ。なので大御本尊を捨てた創価民は貴賤上下を選ばず誰一人として「宝塔ではない」宝塔というより世間に迷惑かける「強盗」のような者であり、信心を証明する多宝というよりもバ〇をさらけ出している「阿呆」とでも言っておこう(笑)

最後に多宝如来について簡単に。多宝如来とは釈迦の説法の証明者である。「我が身又多宝如来なり」というのは正法を受持した人は皆「信心の証明者」となることが出来る。ということ。俺もそうだが正法を受持していても艱難辛苦はあるだろうけど、必ず自身が宝塔となり多宝如来となって大御本尊の証明者になれる。今年もいろいろとあると思うけどお互いに我が身宝塔・我が身多宝と日々過ごしていきましょう。2020年最初の創価教学じゃない御書講義はこれで終了です。ご清聴ありがとうございました(笑)


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