創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2019年度4月座談会御書・日眼女造立釈迦仏供養事)

譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき

今月の御書は「日眼女造立釈迦仏供養事」です。相変わらず同じ御文を何度も使いまわししていますね。いままでやったことのない御文を取り上げるというような努力が見えませんね。同じ御文ばかりでは会員さんも飽きちゃうんじゃないの?まぁ学会教学なんぞ学んだそばから忘れちゃうから同じ御文の繰り返しでもいいちゃいいのだろうけろうけど。

さて、今月の御書だけど四条金吾の奥方の日眼女さんが厄年にあたり釈迦一体仏を造立したことに対するお返事です。何故「釈迦仏」を作ったことを大聖人が讃嘆したのかというと、1に大聖人仏法の弘教初期だから許した。2に阿弥陀仏を作る人が多い中で釈迦仏を作ったこと。3には大聖人様の御境涯で観れば日眼女の造立した釈迦仏は一念三千久遠元初自受用報身の本仏となるから。と日寛上人はご指南されている。そこで今回の拝読箇所でポイントなるのは「教主釈尊」の拝し方になる。

身延などは、文上の教主釈尊のみを知り文底の教主釈尊を知らない故に、本仏に迷い本尊に迷うわけだ。

教主釈尊といっても実には六種の教主釈尊の意味がありその体は違う。

日寛上人のご指南に、

◇「『教主釈尊』の名は一代に通ずれども、其の体に六種の不同あり。謂わく、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、之を思え。第六の文底の教主釈尊は即ち是れ蓮祖聖人なり」

とあるように蔵・通・別・迹・本・文底の教主釈尊がおりその体は不同なのである。そして大聖人仏法の「教主釈尊」の中心は、そのうちの「文底の教主釈尊」であり、文底の教主釈尊とは久遠元初自受用報身如来であられる日蓮大聖人のことである。

◆下種の法華経教主の本迹 自受用身は本上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。(百六箇抄)

では日蓮大聖人の「体」とは具体的には何か?といえば大聖人の色心二法を移し滅不滅の相を示され我等幼稚の末法衆生に与えられた「本門戒壇の大御本尊」である。というのが、唯一日蓮仏法と呼ばれる富士門流・日興門流の根本教義である。

さて、創価では今月の御書解説を聖教新聞に掲載していたが曰く。

ここでの教主釈尊とは、宇宙と生命を貫く根源の一法である、南無妙法蓮華経と一体の仏のことです。大聖人は、仏の生命である南無妙法蓮華経を、末法衆生のために御本尊として顕してくださいました。 故に、私たちにとって“教主釈尊を動かす”実践とは、御本尊を信受して真剣に祈ることです。

だそうな。南無妙法蓮華経と一体の仏とは、一体どんな仏なのか?これこそが大御本尊なのであるが創価は「南無妙法蓮華経と一体の仏」などといういかにも分かったような詭弁を使い誤魔化す。具体的な仏の姿を言えないのでは「理の一念三千」もいいところである。これのどこが「事の一念三千」と呼べるのだろうか?また仏の生命を御本尊として顕したというが、肝心の仏の生命=心法は一体どのような理屈でまたどんな方法で創価のカラコピ掛け軸に移したのか?そこをまるきり説明していない。まさか創価だけの秘法があるわけではあるまい。ここが創価イカサマ教学の真骨頂である。いつも肝心な部分は全く何も説明しないのである。そして創価民は分かってもいないくせに分かったつもりになる。これだから罵詈活創価民は「本尊義」すら語れないのである。前述したがここでいう教主釈尊とはあくまでも一大秘法たる戒壇大御本尊なのである。その大御本尊を不受して創価カラコピを信受したところで「教主釈尊」が揺り動く道理はないのである。

また聖教では、

仏界の生命を涌現させることです

などと書いているし創価民の中には己心の本尊云々と抜かしているヤツもいるが、

仏界を涌現させるのも己心の本尊云々も同じ意味で、これは境智冥合を意味している。

大御本尊(境)を信じて題目を上げる(智)即ち本門の題目を唱えることが己心の仏界・己心の本尊を涌現させることなのである。

その境妙の根本である大御本尊を捨てた創価民の己心の仏界など単なる理であり涌現などしないし、己心の本尊なんて存在しないのである。

この御文は「教主釈尊」たる大御本尊に強く祈る時に諸天善神が動き必ずいい方向に人生が開いていくということだ。

諸天善神を動かす力が仏力・法力であり、その仏力・法力を働かせる力が信力・行力ということなんだ。

俺がいつも言うようにこの「四力本願」の力。これこそが大聖人仏法の神髄なのである。

仏力も法力も持たないカラコピにいくら懸命に祈っても何も起こらない。

もし何か起きたとしたらそれは祈らなくても自力で十分できることでしかない。

家を買う事も、仕事で評価され給料が上がることも、家族が仲良く暮らすのも、そんなことは祈らなくても出来てる人は大勢いる。

そんなモンは功徳でもなんでもない。それこそ学会活動なんてやってないで真剣に仕事やめて家族向き合えや。という話である。

ましてや、選挙の勝利なんて祈りは愚の骨頂で、公明党の為に教主釈尊が諸天善神を動かす必要も義理もなにもないのである。

どうしても教主釈尊に動いてもらいたなら大御本尊にご供養のひとつでもしたらどうだ?

まぁ創価謗法民にはそれは出来ない話だが。

ともあれ、いつも言うが人生は「自力」だけでも「他力」だけでもダメ。

同じ祈るなら本当に「力」にある者に祈る方がいいに決まっている。

創価のカラコピと戒壇大御本尊とどっちに祈った方がいいかなんて普通は分かる。

日蓮大聖人と大作センセとどちらがご本仏かなんてのも普通に分かる。

創価にいるから普通に分かることも分からなくなるんだよ。

そろそろちゃんとした信心しませんか?学会員さん!


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