創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

大謗法の地と創価が言ってる大石寺への登山します。

先日大石寺への添書登山の申し込みをお寺でしてきた。今回は男子部時代に同じ支部だったS・U・O君の三人といつものように引率で地区長さん(引率と言うか無理やりついてくるんだけど)の5人で8月3日の月曜日に登山する予定だ。今年の1月に支部登山に参加して以来の登山でいまから戒壇大御本尊様にお会いするのが楽しみです。さて創価民達は大石寺を「大謗法の地」などと言っているが彼らは一体何を根拠に大石寺を大謗法の地と呼んでいるのか?戒壇大御本尊様を捨てた理由として大石寺が大謗法の地だからというのが創価大本営発表だが大石寺が大謗法の地であるという説明が全くないので言っている本人達も説明できなくてただ「大謗法の地」と喚いてるだけ。大聖人の色心二法である戒壇大御本尊のまします大石寺が謗法の地になることはない。ご聖訓に、

日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか(四条金吾殿御消息)

日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏法華経も地獄にこそをはしまさずらめ(崇峻天皇御書)

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所喉は誕生の処口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべき(南条殿御返事)

とあるように大聖人がおられる「場所」は大謗法の地どころか「仏国土」「寂光土」なのである。それは「依正不二」「一念三千」の法理から言っても当然の話だ。地獄に仏が行けばそこは「地獄ではなく仏土」なのである。大御本尊がまします大石寺を大謗法の地など誹謗するのは戒壇大御本尊を「大謗法の本尊」と誹謗しているのと同じことだ。しかも創価民は大御本尊も【本門の本尊】と認めているのにだ。【本門の本尊】とは人法一箇の正しい本尊であるという意味だろうから創価の言う「大謗法の地(大石寺)の大御本尊は受持しない」という説明は全く矛盾した詭弁にしかすぎない。大石寺が大謗法ならその地にある本尊は大謗法の本尊という事になる。大謗法の本尊は「本門の本尊」とは呼ばないから戒壇大御本尊を「本門の本尊」と認めるのはおかしな話だ。こんな簡単な理屈すらもわからずに大石寺を大謗法の地などと呼び大御本尊を誹謗していることに気が付かない創価民は本当に哀れの極みだ。創価民のいう「日顕宗」なるものが存在しないのと同様に「大謗法の地・大石寺」なんて場所は大聖人仏法の法義に照らして現実的にはどこにも存在しないのである。それが存在している場所は静岡県富士宮市ではなく創価民の心の中だ。

衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり(一生成仏抄)

穢れた信心の創価民の心に中に「大謗法の地」は存在している。大石寺が大謗法の地なのでなく、邪教徒となった創価民がいるその場所が「大謗法の地」である。もちろんそんな大謗法の地にある本尊(風カラコピ掛け軸)は大謗法の本尊である。どんなに創価が屁理屈をこねようとも戒壇大御本尊にお目通りすることは幸甚なことであり、お目通りできる法華講員と出来ない創価民とでは雲泥の差でまさに天国と地獄・・もとい仏界と地獄界の違いである。そんなわけで俺は来月登山して日蓮大聖人様にお会いしてくる。「謗法の地なんて行く気にもならないね」「大御本尊にお目通りしなくたって成仏できる」などと言う創価民さんの負け惜しみと羨望の言葉が実に心地よい。まぁ心配せんでもとりあえずキミ達創価民が一人でも多く戒壇大御本尊様にお目通りできるようにご祈念してきてあげるので感謝してくれよ(笑)ところで8月3日に登山する読者の方いますかね?平日だからいないかな。もしいたらお山でお会いしましょう。


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