創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題号だけの御書講義③(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

題号だけの御書講義の3回目は【如来滅後五五百歳始観心本尊抄 (観心本尊抄)】この「観心本尊抄」は題号だけで軽く1時間くらいは講義ができてします。逆にいうと題号の義と意をしっかり学べば本文を読まなくてもなんとかなります(笑)そんな題号なのですから今日は一番重要な点だけ書きます。【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】は古来から他門流においては色々な読む下しをしていましたが日興門流では如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄】なぜこう読むのかいうとこの題号に四義が具足されているからです。四義とは「時・応・機・法」の事で、仏は「時」「衆生の機根(機)」に「応じて」「法」を説きます。題号のうち【如来滅後後五百歳】は時、【始】は応、【観心】は機、【本尊】が法となりその四義の上から読み下すと【如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄】となります。さてここで重要なのは【観心の本尊抄】の【の】という字です(戸田会長も言ってます)この【の】という一事には「教相の本尊」を簡んで「観心の本尊」と取るという意味があります。教相と観心はどの宗派にもありますが、ここでいう所の「教相の本尊」とは釈迦仏法の本尊であり「観心の本尊」とは大聖人の仏法の本尊です。なぜならば「如来滅後後五百歳にめて弘める」本尊ですから、正法・像法時代にはなかった本尊が「観心の本尊」だからです。正像の二時になかったという事は釈迦仏法ではないという事です。釈迦仏法ではなかった本尊を末法に広めたのが日蓮大聖人ですから「観心の本尊」とは大聖人の本尊です。仏(人)に即していれば【観心の本尊】とは釈迦仏を簡んで末法のご本仏日蓮大聖人を取るということです。つまり【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】とは釈迦仏、釈迦仏法の流れを汲む本尊ではなく御本仏・日蓮大聖人の本尊だということです。この立て分けができれば「観心本尊抄」の八割方理解できたといっていいでしょう。これが理解できれば身延が釈迦仏像等を本尊にしているのは日蓮大聖人の仏法を全く理解できていないということが分かります。【観心】=修行=本門の題目、【本尊】=修行の対境=本門の本尊、そして二つの揃う場所が本門の戒壇ですから【観心の本尊】とは三大秘法のことであり合すれば一大秘法の南無妙法蓮華経です。大聖人ご真筆のご本尊は全て大聖人の出世の本懐ですが、なかでも戒壇大御本尊が根本中の根本の【観心の本尊】です(理由は割愛します)

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊文段上)

つまり末法の我々にとっては大聖人がご本仏であり、戒壇大御本尊が観心の本尊であるというのがこの題号の意です。最後に題号の「如来」について考察すると「如来滅後後五百歳」と附文の辺で読めば如来(=釈迦仏)の滅後の後の五百歳となり「如来」とは釈迦仏になりますが、文意で読めば「滅後後五百歳如来」となりこの場合の「如来」は「末法如来」=日蓮大聖人となります。さらに如来を大聖人として再び「如来滅後後五百歳」と読むときは大聖人のご入滅後ということになりこの場合の「滅後後五百歳如来」とは戒壇大御本尊様ということになると思います。いずれにせよ大切なのは【観心の本尊】の【の】という文字であるということです。因みに創価顕正会の本尊は、見た目が日蓮正宗【の】本尊に似ていますが「観心の本尊」でも「本門の本尊」でもなく、あくまでも「顕正会【の】」本尊、創価【の】本尊です。


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