創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題号だけの御書講義①(開目抄)

今月の創価の座談会御書の「開目抄」ですが、前回「創価教じゃない御書講義」では書きれなかった部分があるので改めて「開目抄」について話したいと思います。といっても本文全体だとかなりの量になってしまいますので「題号だけ」の御書講義にします。大聖人の御書には題号の中に法門が隠されている御書が多々ありますが「開目抄」もそのうちの一書です。まず日寛上人は文段で、

◇開目抄と題することは、盲目を開く義なり乃至一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす、故に開目抄と名づくるなり。

とご指南されています。「一切衆生の盲目を開く書」というのが「開目抄」の題号の読み方です。そして【盲目】とは文段には

◇盲目とは四人を出でず。一には外典の人、二には爾前の人、三には迹門の人、四には脱益の人なり

の四種類の人を挙げています。外典の人とは、「外道の三徳」に執着して「内道(仏法)」の三徳を見ない。(内外相対)池田師匠に執着する学会員などはさながらコレですね。以降は同じで爾前の三徳に執して法華の三徳をみない。(大小・権実相対)法華迹門の三徳に執して本門の三徳を見ない(本迹相対)そして4番目は法華文上即ち釈迦仏法の三徳に執して文底の三徳である日蓮大聖人を見ない。これらの人達を「盲目の人」といいます。この中でも4番目の文底の三徳である日蓮大聖人即人本尊を示すことが「開目抄」の意です。次に【開】ですが文段では

◇「開」とは即ち二意を含む。一には所除、二には所見なり。

と「開」の字に二義があるとご指南されています。「所除」とは「執着」を取り除くことで「破邪」にあたります。「所見」とは正しい三徳を見せる(示す)ことで「顕正」です。従って「所除と所見」の破邪顕正の二つが揃ってこそ完璧な「開目」になるのです。「目を開ける」だけでは片手落ちで「目を開けたら正しいものを見る」という事です。我々の信心の即していえば入信し御本尊を安置しただけでは「所除」です。御本尊に日々の勤行唱題をして初めて「所見」になりますし、また親しく戒壇大御本尊にお目通りすることも重要な「所見」になります。またこれらの「自行」は大きく言えば全て「所除」であり、化他行たる「折伏」をすることが「所見」となります。自行に置いては「勤行唱題」の実践があって「開目」であり、さらに「自行」と「折伏(化他行)」の実践が「開目抄」を身で読むということです。さて「開」とはまた「開会」という意味のあります。この「開」には「能開」と「所開」があります。「能開」とは目を開かせる側で「所開」とは目を開いてもらう側の事です。この「能開」をする人が文底の三徳である日蓮大聖人です。「報恩抄」で

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ

と仰せのように【日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり】とは「開目」のことで、これは「師徳」です。そしてこの師徳によって【無間地獄の道をふさぎぬ】ですからこれが「主徳」で日蓮が慈悲曠大ならば】とは「親徳」で三徳具備のご本仏である大聖人が「能開の教主」であるということです。「開目抄」の題号はこの「報恩抄」の御妙判と投影して読めば大聖人がご本仏であり人本尊であることがよくわかると思います。別しては大聖人が能開でありますが、総じていえば血脈相承の歴代上人は能開で正宗僧俗は所開、法主上人とご僧侶方が能開とすれば我々信徒は所開となります。これが「能所」の違いでありこの節目を違えないのが仏法です。これを創価は「僧俗差別」などと呼んでいますがこれは差別ではなく「能所」の区別なのです。創価民はそれが全く理解でないのです。だから僧俗の違いも分からないし御本尊の区別もつかないつかない。何でも「みな平等」「みな変わりない」と「平等」を主張していれば正しいと思っている。全て最初から「平等」ならば本尊も師匠も不要なのです。そんな創価民・顕正民と対すれば、折伏・弘教に励む法華講衆は「能開」であり、「盲目の学会員」「盲目の顕正会」は「所開」となります。何も見えていない創価民や顕正民の盲目を取り除き正しく三徳具備のご本仏の体である戒壇大御本尊を見せることが根本の「能開の教主」(能化)である日蓮大聖人の仏法を正しく信仰することになります。先ほども書きましたが、自行である勤行唱題をし化他行である折伏弘教をすることが我々大聖人門下の本当に意味での「開目」です。まだ色々と書きたいことはありますが、あとは各自で個人研鑽しましょう。御書を読むのも「所見」ですから。


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