創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「一閻浮提総与」の言葉を悪用する創価活動家。

サカイさんとの会話の中で「一閻浮提総与」という言葉が出てきたので、今日はこの「一閻浮提総与」という言葉をいかに創価幹部・活動家が悪用しているかを書きたいと思う。まず「一閻浮提総与」という言葉は御書の中には直接的な記述はない。この「総与」という言葉は日亨上人が【近年荒木翁が戒壇本尊は未来の満天下の一切衆生に授與(与)せられたものであるから総與の御本尊と云ふべきと主張した】と言われているように大正時代に当時法華講総講頭だった荒木清勇(英一)氏が初めて使った言葉だ。「一切衆生へ総与の御本尊」の意味でいうまでもなく「本門戒壇の大御本尊」を指す。つまり「一閻浮提総与」とは戒壇大御本尊のみにつけられた尊称である。そのことは以前の創価民であれば誰でも常識的に知っている事だ。創価は2014年の教義変更に際してそれまで会則に明記されていた「一閻浮提総与」の文言を削除し「根本の法である南無妙法蓮華経」と書き換えた。戒壇大御本尊を受持しないといった手前「一閻浮提総与」の言葉を使えなくなったのだ。この教義変更は池田センセに了承を得たと原田会長は言っていたがその池田センセは破門後の平成5年に、

▼大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない

と指導している。「出世の本懐」「一閻浮提総与」「大御本尊」と3重に戒壇大御本尊が根本であることを破門後も変わらず指導しているわけだ。これには原田会長も創価活動家も困るわけで、そこで色々と言い訳(詭弁・詐術)を用いて「出世の本懐」や「大御本尊」の解釈を変えている、もちろん「一閻浮提総与」の解釈も勝手に変更している。いまの創価民の言う「一閻浮提総与」とは概ね、「本門の本尊」すなわち大聖人ご真筆と書写本尊の全てが「一閻浮提総与」の本尊であるといった主張である。もちろんこれは宗門の使っている「一閻浮提総与」のという言葉を、無関係な邪教団の創価が勝手に解釈して使っているだけでいわば「悪用」しているだけなのだが、今の創価民は自宅の本尊も「一閻浮提総与の本尊」だと勘違いしている会員さんが多い。日寛上人のご本尊の授与書を勝手に削除してコピーしたのも、浄圓寺が不当所持している日寛上人のご本尊は「一閻浮提総与」のご本尊なのだから授与書は削除しても構わないという大聖人仏法を完全に無視した創価論法で無理やり本尊改竄を正当化しているのだから呆れてしまう。さらに創価は「一閻浮提総与」の本尊は全民衆に与えられた本尊だから日蓮正宗法主だけにご本尊に対する権能があるとするのは本尊の「私物化」であるなどと批判するわけだ。まるで泥棒が自分で作った法律を主張して警察を泥棒扱いているようなものだ。そもそもご本仏・大聖人が全民衆に与えてくださったモノはなんなのか?創価がいうような【単に物体としての本尊】なのか?ならば創価も身延同様に創価のカラコピ本尊風掛け軸を一般販売すべきだろう。創価に入会しなければもらえないないなら創価が「私物化」しているようなものだろう。全くバカも休み休み言って欲しいと思う。大聖人が全民衆に与えたのは「単なる物体としての本尊」ではないである。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(観心本尊抄)

とのご聖訓に明言されているように、御本仏が与えたもうのは「功徳」なのである。大聖人は一切衆生が成仏できる「功徳」を与えてくださっているのである。ここで勘違いしないで欲しいのは、【法体】そのものを与えるのでなく、【法体より生じる功徳】を一切衆生に与えることが【一閻浮提総与】ということである。もっと正確言えば与えるのは「功徳の種」であって、その種ができる「木」あるいは大元になっている種そのものではないという事だ。「功徳の種」の成る木・大元の種が戒壇大御本尊であり、それを【法体】というのである。そしてその法体とは決して「一閻浮提総与」ではなく、むしろ唯授一人なのである。

◆戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝巻下)

とあるように、霊山にて三大秘法を面授口決されたのは日蓮大聖人だけだ。創価理論でいったら、釈尊も大聖人も「私物化」と責められなくてはならない。何度も言うが【法体】とは常に「唯授一人」への相伝しかないのである。なぜならそうしなければ一切衆生与えるべき種の大元が腐ってしまうからである。日寛上人が、

◆「宗祖の云わく『此の経は相伝に有らざれば知り難し』等云々。『塔中及び蓮・興・目』等云々」(撰時抄愚記)

とご指南されているように、この法体である戒壇大御本尊は大聖人より歴代上人に唯授一人血脈相承され現在まで守られてきたのである。「私物化」でもなんでもないのである。ご本尊を物体だとか幸福製造機だとか言っているからこんな簡単な道理が理解できないのだ。ともあれ「一閻浮提総与」の「総与」とは「大御本尊」の「仏力」「法力」の「神通之力」のことであって「大御本尊そのもの」を「総与」したのでない。もっとも大御本尊はご本仏の当体であるのだから「総与」できるはずもなかろう。「一閻浮提総与」の言葉だけをとって自分達が勝手に都合のいいように解釈している学会活動家は大聖人仏法を悪用する大謗法者である。このような創価のインチキ教学に会員は絶対に騙されてはいけないし、インチキ幹部を許していけない。なぜなら「一閻浮提総与」である戒壇大御本尊をすてれば、いかなる本尊を安置していようともいかに唱題に励もうとも成仏はしないからである。大聖人仏法を純粋に真摯に求めるならば「一閻浮提総与の戒壇大御本尊」を信受する以外にはないという事に早く気づいて欲しいと思う。創価はそれを捨てのだから創価には「一閻浮提総与の本尊」はないのです。


にほんブログ村


創価学会ランキング