創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

大石寺への御登山を誹謗する学会員へ。

昨日、大石寺へ御登山し戒壇大御本尊にお目通りしてきました。梅雨時期なので天候も気がかりでしたが曇り空ながら途中は薄日も差して富士山こそ見れませんでしたが雨もなく良かったです。境内の所々に咲く紫陽花がキレイでした。昨年の12月から毎月御登山をしていますが毎月の季節の移り変わりを感じることができて、最近ではそれも御登山の楽しみのひとつです。

さて、今年は大聖人生誕800周年の慶祝登山が行われていますが昨日も慶祝登山の御信徒さんがいました。また海外信徒も大勢いて宗門は少しずつかも知れないけど確実に威勢が増していると感じます。そんな正宗の慶祝登山に嫉妬してか相変わらず御登山にケチをつける創価員は後を絶ちません。無関係な他宗の行事にケチをつけるとは選挙がないから創価員はヒマなのでしょうか。それとも大石寺が気になって仕方ないのでしょうか。さて創価は会員に「大石寺は謗法の場所」などと無根拠なウソを教えますが、日蓮大聖人は

◆此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)

と仰せです。付文の辺では身延山の事を言われている御文ですが要旨は大聖人のいるところは霊山浄土だということです。大聖人の色心二法の体である戒壇大御本尊がいらっしゃる場所は霊山浄土ですから大石寺を謗法の地などということは大御本尊を謗法の本尊と言っているのと同じなのです。現に日寛上人は、

◇教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処尊しとは是れなり。(文底秘沈抄)

大石寺法身の四処であると御妙判されています。つまり「大石寺は謗法の地」などということ自体が謗法なんですね。それを分かっているんですかね創価民は。また、古い創価信者は「大石寺には1回行っているから何度も行かなくていい」などと負け惜しみを言う人もいますが、この言い草はまるで大石寺を観光地か何かと勘違いしてますね。創価は宗門が大石寺を観光地化しようとしたなどと誹謗するけど、「一度行けば十分」という信者ばかり増やしたのだから大石寺を一番観光地化したのは池田創価じゃないですかね。そもそも、大石寺へ御登山するの一番の目的は戒壇大御本尊(御本仏)にお会いするということを創価民分かってませんね。例えば池田大作に会える機会があったとして、以前に池田大作に会ったことがある会員が「池田先生には1回会ってるから別にもう会わなくてもいい。池田先生とは1度会えば十分だ」と言っているのと同じですよ。池田先生に会ったことは自慢するけど戒壇大御本尊(御本仏)には会いに行かないどころか、「あんな場所に行ったら謗法与同だ」なんていう指導のどこに大聖人への尊信の念があるでしょうか。

◆我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬萊山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。(四条金吾殿御返事)

創価顕正会員はこの御妙判をよく読んでみなさい。御本仏大聖人であれれる戒壇大御本尊が鎮座し血脈付法の御歴代上人とそのお弟子の御僧侶が日々の丑寅勤行を始めとし多くの月日を唱題を重ねた大石寺は妙法(法華経)の功徳が空気(虚空)にも満ち溢れている場所なのです。正に霊山浄土とはこのことです。この場所(大石寺)を忌み嫌う人間こそ魔民であることは明確です。大石寺の境内の空気に触れるだけで功徳がある。ましてや戒壇大御本尊にお目通りし法主上人と共に勤行唱題を申しあげる功徳は計り知れません。日寛上人は『観心本尊抄文段』のなかで、

◇故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり。

と御指南され、創価民もこの一節をよく利用するでしょう。この御文中の【此の本尊】とはこの御文の前後を読めば戒壇大御本尊のことを指しているのは明白です。創価海賊版本尊のことではないのです。ここに大石寺への御登山の一番の意義があるのです。ご在世の信徒たちは命がけで大聖人に会いにいきました。また金沢法難における金沢信徒の「抜け参り」も有名です。今の創価活動家のように「昔一度いったからもう行かなくていい」などというのは似非信徒なのですよ。そんな信心で功徳が積めるわけがない。ましてや「謗法の地」呼ばわりするような者どもは無量の罪業を積むことは間違いありません。ね?学会員や顕正会員の人も御登山してきたらどうですか?大石寺に来れば空気に触れるだけでも多少の罪業消滅はできますよ。空気に触れるだけなら無料だし。戸田先生のお墓もありますよ。それになんといっても大聖人が参詣に弥はげむべし・はげむべし。と言ってますからね。大聖人直結といいながら戒壇大御本尊へのお目通りどころか大石寺の敷地にも足を運ばないっていうのはどういう了見ですか?身口意の三業って創価でお勉強したでしょ。直結なら大石寺きてみなさいな。できたら三色旗グッツかなんか身に着けて来てくださいね。境内で見つけたら速攻で折伏しちゃいますから(笑)なんてこれは冗談ですから、ビビッていないでぜひ大石寺に、いらっしゃ~い!

 

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