創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2022年11月座談会御書・千日尼御前御返事)

譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ

 

今月の座談会御書は別名『雷門鼓御書』の一節です。当抄は夫の阿仏房を身延の大聖人の許に三度送り出した妻の千日尼の信心を称賛されてる一節です。この御文は顕正会・浅井がインチキ遥拝勤行を正当化する御文としても有名です。創価的には、「池田先生と直接会うことが大切なのではなく、師匠の心をわが心とする師弟不二の云々」という男子部的な講義か、「家族が学会活動に出かけることを喜んで留守番する人の功徳云々」という少年部的講義が二本柱になる一節ですね。どっちも創価流のインチキ講義ですけでけどね。本文で言われている『心』とは当然『信心』です師弟不二の心じゃないです。さて、その信心が大切な理由は「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」とあるように信心によって我々凡夫は娑婆世界にいながら霊山に住することができるからです。いわゆる【娑婆即寂光】の法理です。この法理を詳しく説明すると、『御義口伝』で、霊鷲山とは寂光土なり」とあり、『四条金吾殿御消息』には、「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と書かれ、『南条殿御返事』にも、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(中略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」等々の御指南にあるように、霊山=寂光土=仏国土日蓮大聖人のおわします場所ということです。ですからこの御書を認められた時の本源の寂光土とは身延山です。そして大聖人滅後は大聖人の色心二法である総体の御本尊がある場所が本源の寂光土となります。その総体の御本尊とは、日寛上人が

◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり(観心本尊抄文段)

とお示しの様に弘安二年の戒壇大御本尊に他なりません。こう書くと創価員は戒壇の大御本尊のことは御書に全く書かれていないなどといいますが、戒壇大御本尊は日興上人が唯授一人相承された御本尊ですから日興上人以外に与えられた御書に書かれていないのは当然ですし日興上人が軽々に口外しないのも当然です。むしろ、「御真筆も書写の本尊も等しい」という創価の主張こそおかしいのです。何故なら「書写の本尊」について御書のどこにも書かれていないからです。もちろん、本尊書写についても日興上人爾来の唯授一人血脈だから御書に書かれていないのかも知れませんが、その血脈付法の日寛上人は、

◇本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり(観心本尊抄文段)

戒壇大御本尊が総体(根本)の本尊であり、その他の本尊は別体、つまり総体の本尊から生まれ総体の本尊に帰結する本尊であると御指南されています。つまり、現在における本源の寂光土とは戒壇大御本尊のおわします、富士大石寺に他なりません。その上で、

◆我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し(最蓮房御返事)

との御指南の如く戒壇大御本尊に根本の信を取り、その分身散影である別体の御本尊に勤行・唱題を申し上げる時(即ち本門の題目を唱える時)にはその場所が寂光土になるにのです。そしてその寂光土(仏国土)に住せば必ず幸福になる。だからこそ心=信心が大切だと言われているのです。【娑婆即寂光】の【即】とは、日蓮大聖人=戒壇大御本尊に対する信心以外の何物でもあります。然るに現在の池田創価は、戒壇大御本尊のおわします大石寺を謗法の地など誹謗し、謗法の地にある戒壇大御本尊を受持しないと言っていますが、これは実に本末転倒で、戒壇大御本尊がご安置している場所を謗法の地であるということ自体が大聖人の御指南に反する我見・邪義なのです。そもそも末法今時においては世界中のほとんどの場所が謗法の地=娑婆世界なのです。戒壇大御本尊を断捨離し、尚且つ戒壇大御本尊を真似た海賊版本尊を安置している学会員の自宅など大謗法の地に他なりません。また創価のプロバガンダに、「特別な場所に行かなければ成仏できない」つまり大石寺に御登山しなければ成仏できない。などと日蓮正宗では言っていません。しかし、高齢の阿仏房が佐渡の国から大聖人を求めて何度も身延を訪れたように信徒として戒壇御本尊にお目通りしたいと願うことは当然のことです。一方で、身延の大聖人の許へ行きたくても行けなかった千日尼のように様々な事情で大石寺に参詣できない信徒であっても、戒壇大御本尊への信心があれば成仏できるのです。それが日蓮正宗の教えです。あなた達、学会員はどうですか?御受戒・勧戒を受ければ戒壇大御本尊にお目通りできるのに最初からそれを放棄して、言うに事欠いて戒壇大御本尊がご安置されている場所を「謗法の地」などといって嫌う。大聖人より池田大作を大切にする。そんな学会員では何百回この『千日尼御前御返事』を読み返しても何も理解できません。そしてそんな学会員の講義など聞いたところで何の役にも立たのです。学会員各位においては、心こそ大切に候へとの大聖人のお言葉を深く拝し、創価のウソを見抜いて戒壇大御本尊への信を取り戻し、【娑婆即寂光】の人生を歩んで欲しいと願ってます。

 

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