創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題号だけの御書講義⑧(生死一大事血脈抄)

今月の題号だけの御書講義は「生死一大事血脈抄」です。まず「生死」とは「生命」の事です。一般的に「命(いのち)」というと「生」だけの事と捉えがちですが仏法における生命(いのち)とは「生」と「死」両方のことを生命といいます。生まれては死に死んでは生まれるという「生と死」のサイクル全体を生命と捉えるのが仏法の基本です。「輪廻」と表現した方が分かりやすいかもしれませんが、この「輪廻」を繰り返す主体が「生命」であり「生死」です。「一大事」とは生死=生命の根本・本質でそれを悟ったのが仏ですから「一大事」とはご本仏の「悟り」そのものを言います。「血脈」とはこのご本仏の悟りが仏から衆生に流れる様を人体に譬えた表現です。まず最初に肝心なのは「一大事」とは何か?ということですが、法華文句には

□一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す

と説かれていてこの文を日寛上人は文底秘沈抄で、

◇一は謂わく、本門の本尊なり。是れ則ち一閻浮提第一の故なり、又閻浮提の中に二無く亦三無し、是の故に一と言うなり。大は謂わく、本門の戒壇なり。旧より勝るる也と訓ず、権迹の諸戒に勝るるが故なり、又最勝の地を尋ねて建立するが故なり。事は謂わく、本門の題目なり。理に非ざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり、又事を事に行ずるが故に事と言うなり、並びに両意を存す、乃ち是れ待絶なり

とご指南されています。つまり「生死の一大事」であるご本仏の悟りとは具体的には日蓮大聖人の「三大秘法である」ということです。そしてこの三大秘法は一大秘法である本門の本尊に摂され、全ての本門の本尊を摂した総体の本尊は弘安二年の本門戒壇の大御本尊である。というのが正しい日蓮大聖人の教えです。さてこの戒壇大御本尊より仏力・法力が衆生に流れる様を「血脈」といいますが、これには縦に唯受一人血脈相承の法体の血脈と、横に本文に書かれている信心の血脈があります。人体に例えると血液(仏力・法力)を送り出す心臓が「戒壇の大御本尊」になります。そして唯受一人血脈は心臓から全身へ血液を運ぶ大動脈です。その大動脈である法主上人につながる法主上人を師とするご僧侶方は細動脈です。そいて我々信徒は毛細血管なのです。これが正しい師弟相対であり「信心の血脈」とは実にこの脈絡を信じることにあるのです。細動脈につながらず大動脈不要などといってる創価毛細血管信者には「信心の血脈」なんてないというわけです。「直結信心」など大聖人仏法には存在しません。まさに「欠陥信者」といえます。というか創価民に至っては心臓である戒壇大御本尊すら捨てていますから彼らは単なるソンビ信者でしかないのですね。そのような創価民にはご本仏の悟りである一大事の仏力・法力は流れることはなく、迷いと苦しみの生死の海を気の遠くなるほどの長い期間流転するわけです。それが無間地獄というものです。そうならないために大聖人は大御本尊をご建立くださり「生死一大事血脈抄」を書き残してくれたのに、池田創価に騙されすかされ退転してしまうとは実に不憫としか言いようがありませんね。ぜひ今世のうちに生死一大事の血脈を通わせてもらいたいと心から思います。

さて、今回で「題号だけの御書講義」は最終回とします。まだほかにもいくつか題号だけの御書講義はありますがそれはまたいつか書くかも知れませんが、とりあえず「題号だけの御書講義」はこれで一旦終了です。


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