早いもので池田大作が死んでから1年だ。聖教新聞の1面には池田の1周忌の記事がデカデカと掲載されいるが創価学会として一周忌法要を催すという告知はない。聞くところによると会員各自の家庭で個人的に追善回向をするだけらしい。先月は顕正会で浅井昭衛の一周忌の法要を行われ顕正新聞でその模様が報道されていたが創価は一周忌法要はしないらしい。もっとも、創価は塔婆も回忌法要も不要だという主張を池田自身も生前語っていたので「各家庭で勝手にしろ」というのは会の方針や池田の意思に沿っている。むしろ法要不要といいながら回忌法要なんて大々的に開催したら、またダブスタの似非仏教団体と批判されるだろうから、一周忌法要はしなくて正解だが何とも無味乾燥な命日である。また死んで1年も経過するのにいまだに池田の遺骨が埋葬されたという話も聞かないし墓所の話も出てこない。原田創価としてはこうやって徐々に池田と創価員を心情的に分断して組織から池田色を消していく作戦なのか、それとも池田家・香峯子と原田創価の関係が上手くいっていないのかその内情は分からないが創価崩壊に向け着実に進んでいる感じがする。それにしても池田を師匠と仰いでる学会員が池田の一周忌もなおざりにする原田創価学会に付き従っているのは部外者か見ると不思議だ。大切な人が亡くなったのであれば回忌法要や塔婆供養・墓参をしたいと思うのが仏法の本義とか自分の功徳とか関係なく普通の人間の心情だと思うが原田や創価員はそうした感情が欠如しているのだろうか。「心が大切だ」とでも言い訳するのだろうが心は見えない。見えない心を表したのが仏事ではないか。こうした原田執行部の方針に反発する会員もいるだろうが、ならば何故創価を退会せずそんな組織に在籍し続けるのか理解に苦しむ。それにしても世界の大指導者と喧伝する人物の一周忌にしては寂し過ぎではなか?まぁ部外者にとってはどうでもいいことだが詭弁を用いて仏事を蔑ろにする似非仏教教団から離れることができて幸せである。
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