先日の菩提寺で取り行われた彼岸会の法要に妻と一緒に参詣してきました。一昨年の11月に御授戒を受けた妻ですが今回が昨年亡くなった私の母の法要を除けば初めての寺院参詣でした。昨年は私の母だけなく妻の父も亡くなり今回の彼岸では妻が自分で父親の塔婆供養をしました。そして「せっかく塔婆を立てたのだからお寺の法要に一緒に行く?」と誘ったところ「たまには行ってみる」と一緒に参詣することになりました。これまで御登山や寺院に誘っても断られていたので正直彼岸会に一緒に行くとは思ってなくていい意味で予想を裏切られました。勤行はできないし(経本を黙読するだけ)唱題も恥ずかしいのか少ししかしませんでしたが、それでも自分で父親の塔婆を立てお寺にきて焼香した妻に私も嬉しかったし何よりも亡き義父が喜んでくれているだろうと思います。お寺から帰宅する車中で妻に「もしこれが創価学会の会館に誘ってたら来た?」と聞いたところ、「創価学会の会館ならいかない」と即答され「だよね~」と思わず笑ってしまいました。時代が変わろうと一般的な感覚としては、やはりお寺で僧侶にお経をあげてもらうのが法事なんですね。創価でも彼岸勤行会をしているけど、池田大作がいくら「坊主に拝んでもらわなければ、お彼岸にならない。供養にならないなどという考えは、完全な迷信にすぎないのである」とか「彼岸といっても、特別な日を決めて坊主に拝んでもらう必要など、まったくない」と言ったところで多くの世間の人達はそんな風に思っていないのです。法事は儀式が重要でないという創価の主張を受け入れる人は少ないでしょう。現役創価学会員さんでも創価の法要に違和感を持っている人も実際に私の周囲にもいます。それは信仰というのは儀式が重要だと多くの人は知っているのです。何故なら儀式は心の姿だからです。特に心を大切にし儀式を重んじる日本人なら尚更です。だから法要や塔婆を「坊主の金儲け」なんて思わない。母の日にカーネーションを買うのを「花屋の金儲け」と思う人はいませんからね。普段から人の振る舞いが大切だと言っている創価員が儀式(化儀)を蔑ろにするのは自語相違です。釈迦の仏典では仏に教えを乞うときはまず「右繞」して「仏足頂礼」する儀式は定番です。それが仏に説法を乞う時の振る舞いです。勤行の時にリンを鳴らすのは礼楽の儀式(振舞い)です。法要の時に最初に御本尊に献膳するのは儀式(振舞い)です。儀式(振舞い)は観心。観心は信心。「化儀即化法」だから儀式を尊ぶ自身の振る舞いと心に善根が積まれ故精霊に追善回向ができるのです。「迷信」でもなんでもない。むしろ仏法の儀式を否定することが信心に迷った「迷信」です。そういう儀式(振舞い)を全て省略して凡夫同士が集まって合同で勤行唱題する創価の法要に何の意味があるのでしょう。自宅で一人で勤行唱題するのと何が違うのでしょうか。しかも儀式を否定しておいて御本尊に供養だけは受け付けしかもその供養を御本尊にお供えすることもしない。それでは「金さえ出せば先祖を成仏させることができる」と言っているのと同じです。そんな道理の通らない供養を創価にするくらいならば塔婆を立てて御供養を御本尊にお供えしてもらい御僧侶と一緒に勤行唱題をするという儀式に参詣した方が気分がいい。いまの創価学会員さんは威儀を正した法事の体験ができず可哀そうだなと思います。(特に子供や若者は可哀そう)早く創価を辞めて正宗に戻り家族そろってお彼岸やお盆の仏事ができるようになればいいですね。話が逸れてしまったけど、今回のお彼岸は初めて妻と二人で法要に参詣出来て本当に良かったです。今度は一緒に御登山するのが目標です。少しずつ妻の信心が育っていけばいいなと思ってます。その為には私自身の信心の姿勢が重要ですね。責任重大です。
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