創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価新年勤行会と池田大作の四十九日。

今年は創価の新年勤行会が4年ぶりに2日間の日程で開催されたそうだ。私の創価活動家時代には最初は深夜0時の回に参加したいたが近隣住民からクレームによってその後深夜0時は中止なった。寺院や神社は元旦深夜に参詣で人が集まってもクレームというのはあまり聞かないがそこが社会に根付いていない信仰宗教団体の辛いところだ。昭和52年の新年勤行会で池田大作が「寺院は儀式の場」「御本尊はもはやどれも同じ」「大聖人の御遺命の戒壇建立は創価学会がした。全部私がやった」と指導し3日にその指導を全国の会館で流したことが池田創価の52路線の教義逸脱の始まりだったことは有名だが、その池田創価が新年勤行会の結集に力を入れだしたのは、北条会長が死去した翌年(昭和57年)からだ。それまでも創価の新年勤行会は開催されていたが会員の多くは新年には寺院に参詣していて創価の会館に行くのは全国で40万人ほどだった。それを北条氏が死亡し影で復権を果たした池田が後任の秋谷新会長に翌昭和57年(秋谷会長就任は昭和56年)の新年勤行会に150万人を結集せよと厳命し各地域の幹部は年末年始だとうのに選挙並みの連れ出し等の活動を余儀なくされ大結集したことが内部告発本の『小説聖教新聞』に書かれている。

その主たる目的は勿論「広布基金」という金集めだが、創価の新年勤行会に結集させるということは同時に寺院への信徒の参詣が減少することであり当然寺院への御供養を減らすということになる。これは宗門支配を目指す池田にとっては一石二鳥の策である。52年路線で総講頭を事実上の罷免になった途端に宗門外護などは無関係と言わんばかりの銭ゲバぶりで52年路線の反省がカタチだけだったことを思わせる。池田は昭和59年に日顕上人によって総講頭に再任してもらったが彼にとって総講頭の役職は宗門支配に利用するだけに必要だっただけの話なのだ。こんな男に総講頭など勤まるはずもなかったのは総講頭でありながら平成に2年に再び宗門批判を行った姿に明らかだ。その学会の新年勤行会は正月飾りで御宝前を荘厳しているわけでもなく導師は地元の幹部が行い、男子部あたりが御書拝読するだけで新年の清々しい特別感はなく何の有難みも歓喜もない行事である。これは正宗に戻らないとわからないことだが、新年勤行会に限らず創価の法要などは本当に「やっつけ仕事」で御本尊に対する心がこもっていないと法華講になって実感した。自分が功徳をもらえれば本尊なんてなんでもいいという乞食信徒の集団ならではの所作なのだから仕方がない。もっとも創価の会館行事など広布基金を搾取することがその主たる目的だから内容は簡素な方が還元率(利益率)が高いから運営側としてはそれでいいのだろう。今話題の政治家のパーティみたいなものである。ところで新年勤行会の最中の1月2日は池田大作の誕生日だったが奇しくもこの日は池田の四十九日と重なっていた。創価は葬儀に僧侶を呼ばないのは仏教の本義だといっているのだから仏教の本義に則って四十九日の法要を執り行うのかと思いきや、そうした告知もなければ報告もなかった。四十九日については『瑜伽論』『倶舎論』等に書かれているが死んだ人は7日ごとに閻魔大王の査問を受け7回目の7日目である四十九日に故人の死後の行き先が最終ジャッジされる。この間を中陰・中有などと呼ぶ。因みに大聖人も『上野殿母御前御返事』で、故七郎五郎殿の四十九日の法要を大聖人が行ったことを記している。また四十九日までの間を通常は忌中として慶事等の参加を控えるのが一般常識である。それにも関わらず四十九日も過ぎないのに「新年勤行会」などの慶祝行事をおこない、「おめでとうございます」などと挨拶を交わしている創価と学会員は異常としか思えない。1月2日が池田の四十九日であることは死んだ時から決まっているのに四十九日法要ではなく「新年勤行会」を開催するとは仏教を名乗る宗教教団とは到底思えない。さながら仏教を悪利用するカルト教団だ。確かに大聖人仏法は死を忌み嫌う教義ではない。また生死不二や即身成仏を説いている。だから創価や学会員が四十九日の法要など不要とか新年勤行会に会員が元気に集う姿を池田センセは喜ばれていると思うのは勝手である。しかし一般人がそうした創価の姿を見て「素晴らしい宗教だ」と感じるか?という話である。多くの一般人は池田を慕っていたはずの学会員が四十九日の忌中も明けないうちから新年勤行会に嬉々として集まり、法要をしないことを当然のように言っている姿を見聞きすれば、仏教団体だと思う人は少なく「異様で異常なカルト宗教団体」と思うだろう。そんな宗教が社会や世間に流布される道理はない。日頃から「人の振る舞い」などと高尚な説法をする学会員の振る舞いが、大切な師匠の四十九日におめでとうがざいますと喜んでいるのだから片腹痛いではないか。結局は原田会長を筆頭に今の学会員はそこまで池田に対する想いなどないのだろう。会ったことも話したこともないような90過ぎの爺さんが死んだからってどうってこともないというのが多くの学会員の本音だろうしむしろその感覚は一般的だ。それに池田の行き先はアソコと最初から確定しているから四十九日法要なんてするだけ時間の無駄だしな。それでも「お別れ会」をするくらいないら形だけでも大先生の四十九日法要をして差し上げたら?と思う。自業自得だから同情はしないが、池田大作はつくづく哀れで惨めだな。

【追記】1月4日付の聖教新聞に原田会長の導師で四十九日法要を執行したとの報告があったそうだが。香峯子夫人と三男は欠席らしい。遺族が参加しない法要なんてきいたことがない。それはただの勤行会だな。(笑)

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