創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「実践の教学」という創価教学の解説。

当ブログでも散々指摘してきた創価のインチキ教学。こんな教学を学んでいるから学会員はいつまでたっても低レベルで法華講からの破折に対抗できず正宗の僧俗をデマで罵倒する事しかできない低俗な人間のままで成長しない。この創価教学の根本になっているのが池田創価の言う「実践の教学」というモノである。この「実践の教学」とは一体どんなものか?創価公式サイトでは「正しい仏法の法理を信仰実践のなかで学び、心に刻んで、御本尊への「信」を深めていくこと」と信仰者であれば当たり前のことをさも創価の専売特許のように大げさにかいてある。では創価の「実践の教学」とはどのような教学なのか?これは池田大作の指導を読み聞きすればすぐに分かる。池田の実践の教学とは「ハッタリ(ブラフ)」と「アジテーション」である。具体的にいうと。【御書を切文して自分の思うような行動に誘導する】。それが池田創価の「実践の教学」の正体だ。「つまり仏法上全く意味・意義のない創価学会活動を御書の一節を切文で使うことにより学会活動(実践)が大聖人の仏法であるかの如くブラフをかけて会員をアジテーションする池田のやり方を「実践の教学」という。池田は若い頃からこの手口で多くの会員を欺き煽ってきたことが「小説・人間革命」の随所に書かれている。説明するまでもなく選挙も新聞啓蒙も財務もほとんどの学会活動は大聖人の仏法とは無関係である。その単なる学会活動に御書の切文をつけて誤魔化すインチキ教学が創価の実践の教学というわけだ。例えば『立正安国論』の「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」の一節を創価では選挙・政治活動が広宣流布(信心)であることの文証に使うが、同じ『立正安国論』に早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」と書かれており、社会や世界の平和は選挙という政治的手法ではなく謗法を断つ破邪顕正折伏)によって行うのが『立正安国』の本意である。その証拠に大聖人自身が政治的な活動は一切していない。この創価教学の「切文教学」は自分の都合のいい部分だけを取り上げて、更にはそこに自己流の解釈までつけで文証らしく聞いている者を欺く手法である。つまり大聖人の御指南通りに実践するように見せかけて、実は自分の行動に大聖人の御指南を合わせているのである。これに学会員は騙され、また自分自身の認知的不協和を誤魔化しているのである。更に法華講との対論においてもこの詭弁を使う事が実に多い。「切文」と「自己流解釈」でいかにも「文証」を提示しているポーズを取るが御書の一節に自分の解釈を付けたら「文証」にならないのである。法華講員はこの手口に騙されないように注意しなければならない。こうした創価切文教学の問題点は御書等の大聖人の法門を体系的に学ばないことにあり、それ故に学会員はすぐに理論破綻するわけだ。いつも言うように御書とは対機説法だから相手の機根に合わせた随他意の御指南であり、また大聖人の一期の化導の次第も考慮しなければならない。対告衆や背景また他の御書と相互投射するなど御書学とは全ての御書に対し体系化して理論構築していくものであって御書の一部だけ切り取るものではない。かつて池田創価は「御書部分論」という造語で日顕上人・宗門を非難してきたが「御書部分論」はむしろ池田創価の「実践の教学」と呼ぶ教学のことなのである。さて、体系化とは、能所・総別・事理・本迹等を正しく会通することである。そして正しく会通するためには、『日興遺誡置文』に「御書を心肝に染め極理を師伝して」と書かれている通りである。ここで示すところの師とは当然大聖人の事であり師伝されたのは日興上人である。牧口・戸田・池田、誰一人として大聖人から師伝されていないのであるから極理を理解できていない。このように唯授一人の血脈により弘宣付属を受けられた日興上人を始めとする御歴代法主上人の御指南を学び随順することにより御書を正しく会通し体系的に理解できるのだ。教学とは知識ではない。確かに知識が豊富な事に越したことはないが知識が豊富だから教学力を有しているのでない。豊富な知識をどのように体系づけて展開していけるかが教学力なのであり学ぶべきものは知識ではなく会通なのである。従ってブラフとアジテーション創価の切文実践の教学などは全く実践に役に立たないコケ脅しのインチキ教学なのである。その証拠に全国津々浦々で正宗僧俗に破折された学会員はついにまとも対論出来なくなりいまでな捏造スキャンダルネタで正宗を貶めること以外に何もできない。元広宣部としてこうした現状にただただ失望と哀愍の念が涌いてくる。ただそれは学会員が悪いのでなく外部には全く通用しない「実践」でも「理論」でもない「洗脳の教学」を教える創価組織が悪いのである。教学を学ぶに遅すぎるということはない。まずはこれまでの創価インチキ教学を一旦すてて正しい教学を学んだらいかがだろうか。戸田会長は大石寺第二十六世日寛上人こそ宗祖の奥底を残りなく説き明かされたのである。実に日寛上人以前にその人なく、また日寛上人以後においてもそれ以上に説明すべき哲学ま何ものもないと吾人は難く信ずる。(戸田城聖全集)と宣言し、池田大作「戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と述べられていた。(三重秘伝抄講義)と証言している。全くこのとおりである。まずは『六巻抄』から学ぶことだ。顕正会ですら『六巻抄』くらい知っているぞ。知ってるだけだが創価よりマシだろう。(笑)

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