創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2022年7月座談会御書・四条金吾殿御返事)

日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をばひまなく法華経釈迦仏日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。

 

今月の座談会御書も過去に取り上げて御文の焼き回しでした。たまには今まで取り上げた御文ではない御書を取り上げて欲しいのですが教学部の怠慢ですね。今度は原田会長の息子が教学部長に昇進したので今後の原田Jrに期待したいところです。

★過去記事はコチラ▶創価教学じゃない御書講義(7月度座談会御書・四条金吾殿御返事) - 創価ダメだしブログ

 

創価教学的には池田大作の『永遠の経典に学ぶ』の中から、【「法華経の命を継ぐ人」が出現したことは、師匠の勝利であり、仏法の勝利です。あとは弟子が、師匠の思いを受け止め、師弟不二の信心で、戦い、勝利することです】こんな指導あたりを引っ張り出して池田先生にお応えする不二の弟子としての戦い(笑)で参議院選挙大勝利って感じですか?座談会でこんな感じの御書講義を聞かされる創価民さんが気の毒です。さて今日は前回とは違う視点で講義したいと思います。「仏力」って当ブログで良く書きますし創価民さんも聞いたり使ったりすると思いますが、「仏力」って具体的にはどのような力なのか?今回の御文にその答えが書かれています。さぁ~ここで5分間、当該御文を読んで「仏力」って何なのか考えてみましょう(笑)はい。では正解発表します。「仏力」とは、されども殿の御事をばひまなく法華経釈迦仏日天に申すなり】この御文の事をいいます。創価のインスタント勤行でも自我偈の最後に、【毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身】って読みますよね。「 毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと」と読み下しますが、御義口伝で

◆仏の衆生を護念したもう事は護とは唯我一人能為救護念とは毎自作是念是なり(御義口伝巻上)

と言われているように、「仏力」とは御本仏・日蓮大聖人が私達の成仏(幸福)を常に祈ってくださっている力の事なのです。凡夫の池田大作がいくら学会員の事を祈った所でそれは「仏力」ではありませんから池田の祈りに応えた所で成仏も勝利もありません。いつも言うように四力冥合(妙力)によってのみ成仏が叶うのが大聖人の仏法です。さて、御本尊には「仏力」以外に「法力」がありますが基本的にはこの二つは一体です。しかしメインは「法力」にあるのではなく「仏力」にあるのです。何故なら「法力」が有っても「仏力」が無ければ私達衆生がその「法力」に浴することができないからです。御本仏の「毎自作是念」の大慈悲があってこそ私達は無限の「法力」に浴することが出来るのです。ですから、「御本尊は宇宙の法則を具現化した曼荼羅」というような創価教学は大きな間違いなのです。御本尊はあくまでも法力を所持した御本仏の姿なのです。幸福製造機でも唯のモノでもなく御本仏の姿が御本尊なのです。創価は日寛上人書写の御本尊を日蓮正宗から盗み取って勝手にコピーして本尊にしていますが、その行為は創価が御本仏を作り出しているということになります。そんなこと可能だと思いますか?広宣流布をしているから自分達が御本仏を作っていいなんて本気で思っているのでしょうか?創価民は池田創価が勝手にコピーした自宅の本尊掛け軸を御本仏だと思っているのですか?だとしたらその根拠はなんですか?何の根拠もなしに自分達で御本仏をカラーコピーで作る。これを大謗法といわずしてなんというのか他の呼び方があったら教えて欲しいモノです。以前当ブログでの私との対話の中で創価現役副本部長のTS氏が奇しくも「創価本尊には仏力も法力もない」と言っていましたが、まさにその通りです。TS氏は大正解です。創価本尊に仮に宇宙の法則を図顕した「法力」が備わっていたとしても、前述した通り「仏力」が無ければ事としての「法力」は現れません。「仏力」の備わる本尊とは、日寛上人は『観心本尊抄文段』の中で、

◇我等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり

と御指南され、さらに同文段において、

◇就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり。

戒壇大御本尊こそが根本総体の本尊(根本の御本仏の姿)であると示されてします。そして私達が戒壇大御本尊を信受して唱える題目は私達の自身の唱題であると同時に私達の口を通じて大聖人が私達に対して「毎自作是念」の祈り(仏力)をしてくださっているのです。法華経の命を継ぐ人】の事を祈っているという根本の意はそこにあります。それが分れば法華経の命を継ぐ人】の定義は自ずと理解できるはずです。この部分については次回また詳しく書きますが(どうせ数年後にこの御文を座談会でやるのだろうから)、ハッキリと断言できることは、創価本尊掛け軸にいくら唱題しようとそんな創価民のことを大聖人はこれっぽっちも祈ってくれないということです。まぁ大聖人よりも池田に祈って欲しいならそれはお好きにしてもらっていいですが成仏はしませんよ。(そもそも今の池田は学会員の事とか祈れる状態なのでしょうかね)むしろそんなインチキ掛け軸に唱題したら謗法を重ねるだけだと忠告しておきます。いやですよね?そんなのは。だったら早く戒壇大御本尊(大聖人)の許に戻りましょうよ。冷静に考えてみてくださいな。池田や創価に貴方を成仏させる「仏力」があるかどうかを。

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング