創価ダメだしブログ

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御講拝読御書研鑽(2024年9月・四信五品抄)

濁水心無けれども月を得て自ら清めり草木雨を得豈覚有つて花さくならんや妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。

今月の御講拝読御書は十大部でもある『四信五品抄』の一節です。【四信五品】とは法華経の『分別功徳品第十七』に説かれる本門の修行者の信心の段階(レベル)で、「現在(釈迦在世)の四信」は低い方から①一念信解②略解言趣③広為他説④深信観成で、「滅後(釈迦死後)の五品」は①随喜品②読誦品③説法品④兼行六度品⑤正行六度品となります。このうちの一番低い在世の一念信解=滅後の随喜品の修行者を大聖人は天台六即のうちの2番目に低い位である名字即の位と定めて、「一切の法は皆是仏法なりと通達し解了する、是を名字即と為づく。名字即の位より即身成仏する故に円頓の教には次位の次第無し」(総勘文抄)と名字即の位で即身成仏するとご指南されています。その理由は当抄に「教弥よ実なれば位弥よ下く」とあるように「教え」が実(力が強い)ければ低い位の(名字即)衆生を成仏させることができるからです。逆説的に言えば本未有善の機根の低い末法衆生は力ある実教・本仏でなければ成仏できないのです。そこで今回拝読の御文に妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」と書かれているのです。法華経は三種九部に分別されます。今回の御文はそのうちの「文・義・意」の三部の法華経のことを述べていて妙法蓮華経は「意」の法華経であると御指南されています。この「文義意」はそれぞれ、文=正法衆生のための法華経、義=像法衆生のための法華経、意=末法衆生のための法華経ということです。「意の法華経」とは何かいうと経典には「意(心)」はありませんから、意(心)とは法華経の経典ではなく御本仏の意(心)で『因行果得の二法』のことです。『観心本尊抄』に、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と書かれています。この御文を日寛上人は末法今時の理即・但妄の凡夫は自受用身即一念三千を識らず。故に久遠元初の自受用身、大慈悲を起して妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頚に懸けしむ等となり」観心本尊抄文段)と釈しています。つまり当該御文の「妙法蓮華経は一部の意なり」と言われている妙法蓮華経とは御本尊のことであって、唱題のことではありません。就中日寛上人が総体の本尊(すべての本尊を束ねている本尊)と言われている弘安二年の本門戒壇大御本尊の事を言うのです。そして唱題行はこの戒壇大御本尊を受持することで、戒壇大御本尊を受持することを「本門の題目」と呼ぶのです。したがって戒壇大御本尊を受持しない創価や身延の唱題は全く法華経の意に当たらず単なる法華経の文でしかありません。さて滅後の五品の最初は「随喜品」でこれは「滅後に法華経本門の教説を聞いて随喜の心を起こす位」の人の事です。人生には辛くて苦しくて悲しい日はたくさんあります。しかしその日その時がどんな苦しく辛くても御本尊に向かい勤行唱題を申し上げる時には盲亀の浮木・爪上の土を思い浮かべ「ありがたく嬉しい」という心を持つことが「随喜品」の位の信心だと今回の御文を拝読して感じました。功徳を貰ったから嬉しいのではなく御本尊に勤行唱題できること自体が嬉しい。創価の戸田会長の指導はそういうことではないかとふと思いました。

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