創価ダメだしブログ

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御講拝読御書研鑽(2023年3月・諸経と法華経と難易の事)

弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に此の義すでに隠没して日本国四百余年なり、珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれり、仏法やうやく顚倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり、幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり

 

今月の御講拝読御書は『諸経と法華経と難易の事』の御文で仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり】の一節は有名で多くの方が聞いたことが有ると思います。今回の御文は「創価教学じゃない御書講義」で過去に2度ほど取り合ているのでそちらもご参考下さい。さて題号の『諸経と法華経と難易の事』とは、法華経は難信難解であり諸経は易信易解であるというこです。何故かと言えば法華経は随自意であり諸経は随他意であるからです。これは対比の問題で外道と仏法ならば外道は易信易解で仏法は難信難解。小乗と大乗ならば小乗は易信易解、大乗は難信難解になると本抄で説かれています。この法理は大聖人仏法の御本尊にも当てはまります。大聖人御真筆の御本尊は随自意(難信難解)であり御歴代書写や御形木本尊は随他意(易信易解)であり、大聖人の御真筆の中でも本門戒壇大御本尊が真実唯一の随自意でありその他の御本尊は随他意なのであります。(理由は諸々ありますが割愛します)それゆえに戒壇大御本尊は難信難解なのです。さて、本文には幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す】とのお言葉あります。ここでいう所の【仏意】というのは、これこそ【随自意】(仏様の心そのもの)の事であり、今説明したように戒壇大御本尊のことです。戒壇大御本尊に随うとは戒壇大御本尊に信を取るという事ですから我々は戒壇大御本尊への信によって広大無辺の仏智、すなわち大慈大悲の薩般若海に必ず浴することが出来るのです。それ故に世間が悪世であろうとうも一生成仏を成すことができるわけです。また角度を変えて読めば仏意に随つて】とは戒壇大御本尊と大聖人は一体ですから大聖人の御指南に随う事です。いい方を変えれば如説修行を実践していくといことです。如説修行については『如説修行抄』に書かれているように自行化他の題目。なかでも大聖人は同抄において折伏の実践を強く勧められていますから折伏をしていくことが仏意に随う事になり延いては戒壇大御本尊に信を取るということになります。また如説修行とは「師弟相対」という一義が具わっていますので、御書の御指南は当然ですが日興上人以来の唯受一人血脈相承の法主上人更には菩提寺の御住職の御指南を素直に信じ実践することも『仏意に随う』という大聖人の御指南に随う事になります。たまに御僧侶方に対して「折伏折伏とやかましい」などと言ったり思ったりするような法華講員を見かけますが、それは大聖人に対して暴言を吐いているのと同じなので気を付けて欲しいと思います。仏法は体】とは個人に約せば自分自身の信心です。自身の信心が曲がれば自分を取り巻く世界は顛倒し不幸になります。戒壇大御本尊への尊信は大聖人の随自意であるが故に難信難解と言えます。この難信難解とは「信じることが難しい」から「理解することが難しい」という事です。ですから逆に言えば「信じる事」を続ければ「理解する事」ができる。つまり「難信難解」変じて「易信易解」となるのです。「易信易解」になるというは、「簡単に(易しく)成仏することができる」という意味です。

◆仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり(新池御書)

いま日本はお世辞にも安穏な社会とはいえません。私もそうですが多くの人々が多くの不安を抱え不安に怯え毎日を過ごしていると感じます。だからこそまずは自分が仏意に随う生活をすると同時に自分の周囲の大切な人達にも大聖人の仏法を語っていく(折伏)していくことが結果的に日本を社会をいい方向に変えていく一番の手段だと思いますしそれが本来の宗教団体そして信仰者の在るべき姿だと思います。

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