いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり、釈に云く「若し人本悪無きも悪人に親近すれば後必ず悪人と成り悪名天下に遍からん」云云、所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり、涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪智識に於ては怖畏の心を生ぜよ、悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺さるれば必ず三趣に至らん」
今月の座談御書は過去に講義済みなので過去記事をリンクしておく。というわけで今月は【創価学会員の為の御書要文】として『最蓮房御返事』の一節を講義する。私には昔から付き合いのある現役学会員の友人・知人が大勢いるがほぼ全員が善人である。私の友人・知人に限らず一部のアタオカ会員を除き創価学会員は「いい人」が多い。(これは創価以外の宗教に信者にも共通するが)ただそれはあくまでも世法の話だ。仏法における善人・悪人の区別は世法のそれとは違う。仏法の世界では法華誹謗の謗法者を指して「悪人」といい「悪師」という。どんなに世間的に「いい人」であっても謗法者は仏法においては「悪人」だ。何故なら人は謗法者によって正信の心を殺されたなら必ず三悪道に落ちるからであると当該御文の大聖人の御指南通りである。謗法を具体的にいうと、「謗法とは謗仏謗僧なり。三宝が一体なる故なり」(真言見聞)との御文のごとく三宝を誹謗することである。末法今時の三宝とは日蓮大聖人仏法正嫡の日興門流においては曼荼羅本尊(法)・日蓮大聖人(仏)・日興上人と血脈付法の法主上人(僧)で、その究極が三宝一体の本門戒壇大御本尊である。従って三宝それぞれ個別に誹謗することは言うまでもなく戒壇大御御本尊を誹謗することも謗法になる。さて破門直後の創価は僧宝誹謗だけだったが、その後戒壇大御本尊不受持を決めた。僧宝誹謗だけでも仏法上の大罪であるのに戒壇大御本尊を受持しないというのは大謗法である。創価員の中には「大御本尊を受持しないだけで誹謗はしていない」と言い訳するヤツがいるが、受持とは信受の意味であり信受しないというのは不信と同意だ。『三宝抄』では謗法の二義として不信と正法誹謗を挙げ不信は謗法の因・誹謗は謗法の果と定義されているし、不信は十四誹謗にも挙げられる。つまり今の創価学会は大謗法の仏法における悪人だけの組織なのである。どんなに善人であってもこうした悪人の集まる組織で悪人たちに接していると自分も悪人になってしまう。自分が創価学会に入信した時のことを思い出してみるといい。最初は日蓮正宗に対して何の感情もなかったはずだ。それが創価組織に染まっていくと日蓮正宗を「日顕宗」と罵倒するようになり戒壇大御本尊を忽せにし中には後世の贋作と言い出したりして見事に悪人になるのである。そして後生は無間地獄で苦しむことになる。これが謗法与同の恐ろしさで、そのようにならないために悪人に近づかないように大聖人が戒めているのが今回の御文である。大聖人が「はやく創価活動をやめて創価学会を退会せよ」と言われているのである。釈尊が「善き友がいることは修行の半ばではなくその全てである」といったように善知識から離れないことが仏道修行の全てなのだ。善知識とは「総じて知識において重々これ有り。外護の知識、同行の知識、実相の知識これなり。詮ずるところ、実相の知識とは、いわゆる南無妙法蓮華経これなり。」(御講聞書)であり、善智識の根本である実相の知識とは南無妙法蓮華経即大聖人の色心二法たる戒壇大御本尊のことである。したがって戒壇大御本尊に親近し離れないことが成仏の根本であり全てである。戒壇大御本尊を捨て更には大聖人と日興上人すら蔑ろにして創価学会仏・創価僧宝論を主張しだした創価には成仏の道はなくあるのは堕在無間の無惨な未来だけだ。創価学会諸君は一刻も早く創価組織から離れ戒壇大御本尊に親近することを忠告しておく。
■過去記事▶創価教学じゃない御書講義(28年10月度座談会御書・聖人御難事) - 創価ダメだしブログ
★創価・顕正からの退会・正宗への移籍・創価破折方法の相談はメール(sokadamedasi@gmail.com)、X(Twitter)のDMでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。
▼一日「イチ押し」お願いします