TS氏との対話が終わりました。終わったというより彼が一方的に打ち切っただけですけど(笑)短いやり取りで大半は大した内容もない感じでしたがTS氏の本尊観が最後に聞けたのは私としては大きな収穫でした。氏曰く。「創価学会の本尊には仏力も法力も備わっていない」と。それを聞いて安心と納得をしましたね。この本尊観はTS氏の個人的見解ですから学会の公式見解でもないし学会員の総意ではありません。でもTS氏と同様の本尊観を持っている創価民は他にも大勢いると安易に想像できます。本尊の開眼の話をすると、「自分が題目をあげることによって本尊を開眼する」という創価民がたくさんいます。これは逆に言うと題目をあげなければ仏力も法力も本尊に宿らないということですから根本はTS氏と同じ本尊観です。創価本尊には仏力も法力も元々は備わってのであれば、それは「単なる本尊風のカラーコピー掛け軸」であり、それを大聖人仏法の本尊とは言わないので「ニセ本尊」というのは正しいということになります。(仏力も法力も備わっていなくても本尊と論証できれば別ですが)もちろんTS氏とは違い「本尊には仏力も法力も備わっている」と思っている創価民も大勢いるでしょうが私はそこに創価の宗教としての限界を見た気がします。つまり学会員の本尊観はマチマチでバラバラだといことです。ひとつの宗教または宗教団体において自宗の本尊について信徒がここまでバラバラな見解を持っている宗教は創価以外にありません。例えば氏との対話でも分かるように法華講員は「戒壇大御本尊は御本仏・日蓮大聖人である」という見解で統一されています。地域性も年齢も性別も関係なく同じ本尊観なのです。これは日蓮正宗・法華講だけが特殊なのではなく、どんな宗教でもどんな宗旨でも、顕正会でも幸福の科学でも自宗の本尊に対する見解が信徒によってバラバラになるような事はないのです。何故ならいつも書くように宗教とは「本尊(宗)の教え」だからです。本尊観が同じ人間が集まるから「宗教団体」になるのです。また宗教法人の認可の要件にも「本尊」と「教義」が備わっているは大前提となっています。それなのに創価は本尊観が信徒によってマチマチなわけです。「教義」が浸透していないわけですから「教義」自体が間違っているか教団の指導体制が間違っているかどちらですが、「教義」が間違っているならば当然「本尊」が間違っているということになり、指導体制が間違っているなら創価学会は「間違った組織」であるといことなります。どちらにしても信徒の本尊観がバラバラであるというのはその教団自体が信用に足りない教団であるといえるでしょう。さて大聖人の御書には、
◆総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し(生死一大事血脈抄)
◆はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと(異体同心事)
とのお言葉があります。戸田2代会長はこの「異体同心」について、【異体同心という言葉はいかなる言葉であるかという問題です。異体同心の心という字は、「観心本尊抄」の観心に通ずるんです。観心が、観心が同じだから異体同心と言うのであります。観心とは何を指すか。弘安2年の10月12日の大御本尊様を信受奉るという心が同じだから異体同心と言うんですよ】。と指導しています。池田大作は戸田会長のこの指導を「師匠と同じ心」などとすり替えていますが同時に池田大作は【異体同心の心は、信ずる心です。信仰が同じという意味です。】とも言っています。【信仰が同じ】というのは本尊観が同じということに他なりません。いまの創価民は「戒壇大御本尊を受持しない」という戒壇大御本尊に対する本尊は同じなのでしょうが肝心な自宗の本尊に関してはバラバラな」見解です。つまり創価には異体同心の信心は存在しない。よって創価民が言うところの「信心の血脈」も存在しないつまるところ創価の信心では成仏しないということになります。「ニセ本尊か否か」以前に創価組織にいたら成仏できないということです。ともあれ、信徒の本尊観がバラバラである事は創価が宗教としてのテイをなしていないということでありそれは宗教としての終焉を意味します。創価が会員に徹底指導して創価民達に一貫しているのは「選挙は公明党」という思想だけです。今回のTS氏との対話は本当に大きな収穫でした。ありがとうございました。
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