創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

唱題オシの創価指導は間違い。

では、今日は蘭房さんのリクエストにお応えして「唱題」について書いてみる。

創価幹部の指導はなんだかんだ能書き垂れても最後は「お題目だよ」となる。

「お題目には力がある」なんて堂々と言っている幹部、ブログに書いている創価民は大勢いるが、

ハッキリ言おう。「唱題そのもには何の力もない」

題目あげると守られる。題目あげると力がわく。題目あげると智慧が出る。などと創価民は言いたいこと言っているが、

それが全て間違っているとはいわないが、「唱題そのものに力がある」と思っているならばそれは大きな間違いだ。

「本門の題目」について日寛上人は「文底秘沈抄」で次のようにご指南されている。

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり

◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり

と。つまり「題目をあげる」というのは、「信行具備の修行」だ。四力でいえば「唱題」とは信力・行力だ。実際に我々に功徳をもたらすのは仏力・法力であって、その体は上記ご指南の通り「本門本尊」でありその法体を受持するための「修行」が「本門題目」ということになる。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

この御文の意は、「釈尊の因行果徳の二法」である仏力・法力は、「妙法蓮華経の五字」である本門本尊(就中大御本尊)に備わっている力である。「五字を受持すれば」これを信じて題目をあげればその仏力・法力を与えられる。ということである。

このように仏力・法力とは「本尊」に備わっている「力」であり題目はそれを得るための手段(修行)なので「唱題」単体には何の力も有さないのである。「本尊」を無視して題目を上げたところでそれにはなんの「力」もないわけだ。「題目を上げれば力がわく」というのはあくまでも仏力・法力が沸くのであって、信力・行力が沸くのではない。さて全ての本門本尊を束ねているのが一大秘法たる戒壇の大御本尊で、その大御本尊を受持しないと言っているのが創価民である。創価の唱題は本門本尊を受持しないで上げている題目だ。「題目」とは本来は受持の修行であるにもかかわず、その対象を「受持しない」といって題目を上げているのだからこんなに矛盾した話はない。受持の対象を捨てておいて一体何を受持する修行をしているのか?そんな修行をしたりさせたりして一体どこからどんな「題目の力」とやらがわいてくるのか。さらに「そもそも論」をいえば、どこぞやの創価民は三大秘法がバラバラに存在しているかのごとき我見を吐いているがそうではなく「本門題目」とは「一大秘法の大御本尊」に備わっているものである。その大元を受持せずに「単体の題目」に一体何の価値があるというのだろうか。「文底秘沈抄」に曰く、

◇仮令修行有りと雖も若し信心無くんば不可なり

「唱題」(修行)をいくらやったところで「信心」がなければ「不可」なのである。

なぜならば、その修行(唱題)そのものには、「仏力・法力」が備わっていないからだ。

大御本尊を対境として、大御本尊に「信心」を取る時に初めてその「唱題」に力が備わるのである。

故に、創価幹部や創価民の言う所の「題目に力がある」なんていうは嘘八百である。

創価民のあげるお題目には何の力もない。真言の陀羅尼(呪文)と同じである。

とはいえ、大聖人は立宗宣言からこの方「題目」を流布していたのだから「題目こそ大聖人の正意である」という創価民にも一言付しておく。

立宗宣言された時に大聖人の唱えれらた題目とは、外用においては上行菩薩へ附属された結要附属を末法に説くためで、内証では当然ながらご本仏の御境涯の上から唱えられたいわば「能詮」の題目である。「能詮の題目」とは大聖人の色心二法に備わる題目であり、四力一体の題目である。それに対し我らが唱える題目は所詮の題目であり四力冥合のための題目なのだ。

日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや(諸法実相抄)

この御文に書いてあるように、「地涌の菩薩」でなければ唱えない題目を、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へし」まず一番最初に大聖人が唱えた。のであるから大聖人の最初の題目は「地涌の菩薩」の棟梁たる上行のお振舞なのである。そしてこの最初の題目から次第に増えていくのであるから、大聖人の最初の題目は「能詮」であり二人目以降は「所詮」なのである。(もちろん大聖人の題目は法体と一体であり我らの題目はその法体に対する修行という意味も踏まえての能所の違いだが)

最後に大聖人ご在世の人々は何故「題目だけ」でも成仏可能だったのか?だが、

これは言うまでもないが「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが即日蓮大聖人に「信心」を取っている事であり、

それは即「人法一体のご本仏」を受持する修行になっているからだ。

「大聖人は題目だけ唱えれば成仏すると御書に書いてある」などという創価民はそこが分かっていない。

現代だって大御本尊に信心を取っていれば究極は「題目だけ唱えれば一生成仏が可能」である。

色々とまとまりのない文章になってしまい、蘭房さんご期待に応えられなかったかなぁと思いつつ、

創価の皆さんには再度言っておく。

本門の本尊である大御本尊を受持しないで上げる題目は、

どんなに真剣に祈っても、強く祈っても、長時間祈っても、死ぬ気で祈っても、

力も智慧も出ない。功徳もなければ福運もつかない。仏界も涌現しないし、諸天にも聞こえない。

重要なのは「自分の祈り」の程度は無く、「正しい本尊(仏様)に祈る」ということだ。

大作センセやそこらのバ患部に呼吸なんて合わせてたら窒息死するぞ(笑)


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