師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり(経王殿御返事)
今年最初の御講拝読御書は『経王殿御返事』の御文です。本抄は非常に短い御書ですが内容の濃い御書ですからぜひ全文をお読みください。対告衆については詳しく分かっていませんが、経王殿は四条金吾夫妻の子供で月満御前の妹とも弟とも言われています。いずれにせよ病魔に冒された経王殿の両親に与えられたお手紙です。今回の御文の中にも多くの御指南が含まれていますが全て書くと長くなってしましいますのでポイントの一部だけ書きます。まず、【日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候】とありますが、これは本抄後半の、
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ
と同意です。御本尊とは決して宇宙の法則を図顕したものではなく、大聖人の魂(心法)を顕した法体であるという事です。つまり南無妙法蓮華経は宇宙の中にあるのではなく大聖人が所持しているのです。その大聖人の心(魂)の根本となっているのは「師子王の心」です。本文の【師子奮迅之力】とは師子王の心であり師子王の力で、御本尊の仏力・法力を表しています。そして【曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし】との一文は今度は私達の信力・行力を表しています。次の【師子吼】とは、
◆師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり。(御義口伝)
とご教授されているように師である大聖人の仏力・法力と弟子である私達の信力・行力が冥合した「四力冥合」の題目のことをいいます。人師である池田や浅井と不二の題目を唱えても凡夫である彼らは仏力も法力も持っていませんから四力が揃いません。我々は仏力・法力具備の御本仏・大聖人を本師として初めて成仏するのです。その大聖人の題目とは正・像の前代と異なり末法適時の自行化他の題目ですから弟子である私達もまた自行化他の題目を実践して初めて【師子吼】の題目が成立するのです。つまり勤行唱題と折伏の両方を実践してこそ「四力冥合」の本来の力が涌現するわけです。そうした信心を実践する時には、どんな病気・そして苦難に出会ったとしても、それによって「障り」を受けることはなく却って変毒為薬していきます。本抄の最後の方の
◆経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき
との一文はこの変毒為薬の法理を示されている御文です。さて、再び「師子王の心」の話に戻りますが、『佐渡御書』に、
◆悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し(佐渡御書)
とのご教授があります。この御文が具体的な「師子王の心」を持つ者の姿です。つまり、謗法・邪教の徒とは相手が誰であっても全力で破折・折伏していく。その時に御本尊の本当の仏力・法力を我が身に蒙り必ず成仏していくのですね。なんて偉そうなこと事を書いている私ですが現実は苦難の連続の毎日です。そうした苦難に対して時には弱気になり諦めかけたり、時には恐怖に怯えたりしています。でもそんな時には、【南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや】のこの一文を胸に唱題・折伏を実践しています。いま当ブログを読んでくださっている方の中にも、病気はもちろん様々な苦難に冒されている方もいると思います。逃げられるものなら逃げるが勝ちですが逃げられないのであれば戦うしかない。戦う以上は師子王の心を取り出してやり切るしかない。師子王の心を取り出すためには唱題行しかありません。そして師子王の心でやり切れば必ず成仏すると大聖人がお約束してくださっています。ですから勤行・唱題根本に皆で一緒に各自の苦難に打ち勝っていきましょう。日顕上人も◇すべては唱題からと御教示くださっています。というわけで、私も自分自身の苦難を打ち破るために勤行・唱題・折伏と決意も新たに精一杯頑張りたいと思います。
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