叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとくみなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心のいさぎよきはすめるがごとし、木は道理のごとし風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。
コロナの影響で先月の御講は参詣できませんでした。今月は代表者のみの参詣といことでしたが有難くも信徒の代表の一人として参詣させていただきました。今月は『日厳尼御前御返事』の一節を拝読しました。創価を退会した人々の口から「祈りが叶わなかった」という言葉を耳にしますが祈りとは御本尊の仏力・法力と我々の信力・行力が冥合して初めて叶うのですから仏力も法力もないインチキ創価本尊で祈りが叶わないのは当然のことです。しかし本物の本尊であっても祈りが叶うか叶わないかは我々の信心(信力・行力)次第です。祈りが叶わなかったとしたらそれは御本尊の過失ではなくこちらの信心が弱からです。とは言っても祈り方は人それぞれでどのように祈れば願いが叶うのか?というのはある意味永遠のテーマだと思いますので今回は逆に絶対に叶わない祈り方について2点書いてみます。先ず一つ目は、
◆謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し(曾谷殿御返事)
との御妙判にあるように、「謗法者の祈り」は叶いません。もとより法華講員は戒壇大御本尊に帰命しているわけですから大謗法の責めは負いませんが、謗法には「上中下雑」とあります。『松野殿御返事』には十四誹謗を挙げています。「この願いは叶わないかも知れない」と思いながら祈れば「不信」であり、「自分の信心が間違っているかもしれない」と思いながら祈れば「計我」「浅識」の謗法になります。それ以外に自覚は無くても知らないうちに十四誹謗を犯していることはよくあります。「懈怠」なんて犯しがちな謗法ですよね。私も「懈怠謗法」やりがちです。このように身に謗法があれば祈りが叶わなかったり、叶うまで時間がかかったり少ししか叶わなかったりします。もちろん小さな謗法であれば御本尊に懺悔すれば消えますが無自覚の謗法は分かりません。ですから自分に謗法が有ってもなくても「謗法消滅」を祈っていく事が大切だと思います。次に、
◆だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつてをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。(四条金吾殿御返事)
との御妙判にあるように師と同じ思いを持っていないと祈りは叶いません。根本の師は日蓮大聖人です。その大聖人の「想い」とは◆大願とは法華弘通なり(御義口伝巻上)とのお言葉通り折伏弘教ですから大師匠である日蓮大聖人と同じように法華弘通(折伏・弘教)を祈らなければ諸願満足とはならないのです。日寛上人は、
◇「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり」(如説修行抄文段)
と折伏を忘れれば謗法であると厳しい御指南をされています。何故なら折伏を放棄したら大聖人の思いを踏みにじるからです。そのような人が祈っても願いが叶うのは難しいのです。ですから唱題の時は「法華弘通の大願成就にお役に立つように」と祈っていく事が大切です。また手継ぎの師である御当代猊下や御住職の御指南をしっかり聞いて実践していこうという気持ちを持つことも祈りを叶えるのに大切な事だと思います。もう気づいた人もいるでしょうけど要するに四座の御観念文である、「一天四海広宣流布大願成就」と「謗法罪障消滅」のこの2点を唱題時には祈っていく事が願いを叶えるための肝要になります。その上で本文にある「いさぎよい信心」をしていきたいですね。「潔い信心」とは捉え方は色々とありますが基本は純真な信心だと思います。具体的には、
◆在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(松野殿御返事)
との大聖人の御指南を素直に実践することだと思います。日々の勤行唱題、御供養、折伏をしていけば必ず祈りは叶います。そう確信して私もそして法華講の皆さんもそれぞれの願いを叶え諸願満足な人生を歩んでいきましょう。私の場合は創価時代の罪業消滅あるのでより一層精進しなければと思っています。
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