常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。これ則ち身口意の三業に法華を信ずる人なり云云。
今回は日寛上人の有名な御指南なので知っている人も多いかと思います。「四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり」の御指南は池田創価が謗法であることの明確な文証ですね。池田大作は「ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。」と四箇の格言を侮蔑するスピーチをし現在の学会員もこの池田の考えに賛同しているから「心が謗法」であることは明確です。「ただ心こそ大切なれ」(四条金吾殿御返事)と大聖人が言われているように、「心が謗法」であれば例え口や態度で謗法を犯していないように見えても全て謗法になります。池田創価が謗法であることは間違いのない事実です。さて、今回の御指南について自称在勤教師会(正信会)は以前に、「折伏は化他行でない(勤行唱題の自行である)などという「これが大聖人の仏法を学んだ僧侶か?」と疑いたくなるような噴飯物の見解を述べましたが、「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法抄)の意味を全くできていません。仏法の化導方法には摂受と折伏があることは御存じの通りですが、この摂受と折伏にそれぞれ自行と化他が存するのです。勤行唱題で自身の功徳を積むのが【自行の摂受】で、信仰をしてない家族や友人たちの幸福を祈るのは【化他の摂受】。自身の謗法厳戒の為に勤行唱題行をするのが【自行の折伏】で、未入信の人々に弘教をしたり正法誹謗の輩を破折するのは【化他の折伏】です。通常折伏と言えばこの【化他の折伏】を指しますが、この日寛上人の「身口意の三業に折伏を行ずる者なり」との御指南は【自行の折伏】を述べられているのであって化他の折伏行は不要だという御指南ではありません。日寛上人は「自行若し満つれば必ず化他あり」と言われています。即ち【化他の折伏】に至るには【自行の折伏】が前提なのです。故に心に折伏を忘れずに勤行唱題をすることが大切であると御指南されているのです。折伏成就を祈らずに自身の功徳や成仏だけを祈る【自行の摂受】だけではいくら唱題を上げても折伏に至らないのです。そして折伏に至らない題目は末法適時の大聖人の南無妙法蓮華経ではないのです。従って成仏は望めません。次にこの御文では、「法華本門の本尊」「本門寿量の本尊」「法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経」と三つの角度から本尊論を説明しています。「法華本門の本尊」とは法華経本門に説かれる上行菩薩に付属された本尊、「本門寿量の本尊」とは五百塵点劫の釈尊とそれ以降の仏菩薩を成仏せしめた本尊、「法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経」とはそれらの本尊を束ねた本因妙の本尊という意味で、これらは別々な本尊ではなく全て戒壇大御本尊を説明している御指南と拝します。つまり戒壇大御本尊とは「末法衆生のために上行菩薩に付属された久遠の釈迦と諸仏を成仏せしめたした寿量文底の日蓮大聖人の下種の法体である本因妙の本尊である」ということです。この戒壇大御本尊を自行化他に亘って受持する人を法華を信ずる人といい如説修行であると日寛上人は御指南されていのです。従って戒壇大御本尊を受持しない創価や顕正会員は法華不信の者であるということです。
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