創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2022年6月・祈祷抄)

大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず、法華経の行者を諸の菩薩人天八部等二聖二天十羅刹等千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り下は九界をたぼらかす失あり、行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし

 

今月の御講拝読御書は『祈祷抄』の有名な御文です。この御文については過去2度【創価教学じゃない御書講義】で記事にしています。

▼過去記事はこちら

創価教学じゃない御書講義(6月度座談会御書・祈祷抄) - 創価ダメだしブログ

創価教学じゃない御書講義(2021年6月座談会御書・祈祷抄) - 創価ダメだしブログ

 

過去の創価座談御書の範囲は当該御文の前半部分だけなので今日は後半の【行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし】の部分を研鑽したいと思います。当該部分の「不実・愚痴・不浄・無戒徳」とは本文では別して法華経の行者と言われていますが、総じて言えば「不実・愚痴・不浄・無戒徳」とは末法衆生に共通します。末法の荒凡夫は本未有善の衆生ですから皆「不実・愚痴・不浄・無戒徳」の人間です。そうした末法衆生であっても南無妙法蓮華経を唱えれば諸天善神は必ず守護します。その理由は本抄の冒頭から当該御文の直前まで書かれていますが簡単に言うと仏菩薩を含めた十界の衆生法華経によって成仏できたので法華経とそれを説いた仏に対して必ず報恩すると誓いを立てたからです。もちろんここでいう南無妙法蓮華経を唱えるのは人法一箇の大御本尊を受持するという意で、単に南無妙法蓮華経の唱題をすれば守られるのではありません。ですから創価や顕正・身延等の信者がいかに唱題しようと諸天の守護はありません。しかし、法華講員でもなかなか祈りが叶わない時ってありますよね?その祈りが叶わないのには原因があります。

◆何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし(曾谷殿御返事)

との御妙判にように「謗法」があると祈りは叶いません。謗法については『松野殿御返事』に書かれいる十四誹謗が有名ですが、我々、法華講員は戒壇大御本尊様に帰依したので大謗法の罪からは逃れています。しかしつい十四誹謗の謗法を犯してしまうこともありますよね。やっちゃいがちなのは「懈怠謗法」と「著欲謗法」ですよね~。むしろこの二つはセットといってもいい(笑)末法の荒凡夫の我々にはそうした謗法がありますので祈りが叶うのに時間がかかる場合があるわけです。

◆謗法に上中下雑の謗法あり(顕謗法抄)

との御教示のように法華講であっても下・雑謗法は犯してしまいます。そうした我々のことを「不実・愚痴・不浄・無戒徳」の法華経の行者といいますが本文ではそうした我々でも必ず祈りが叶うと大聖人は言われています。何故かと言えば御本尊の仏力・法力によって雑謗法等の小さな罪業は消えてしまうからです。日寛上人は、

◇懺悔と云ふ事大切てこさる。其の懺悔は如何様にするそ。(中略)善に付け悪に付け南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉れは、衆罪は霜露の如く消へ失て仏の仏心仏界となり、善根はは彌増長する程に、或い世事の営にさへられ、或いは世間の事にさえられて、縦仏前には向はざれとも手に珠数をは持たざれとも、只常住不断に南無妙法蓮華経を心に忘れ給はぬか尤肝要てこさる。(序品談義)

と御指南されています。即ち、勤行・唱題を実践すれば自然と日々の自身の謗法は消えていき善根は増長していくわけです。この罪障消滅と善根増長のバランスが整ったときに祈りは叶う訳です。故に法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と大聖人は仰せなのです。では何故、勤行・唱題で謗法を消滅できるのかというと、これも日寛上人が

◇心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。是れ則ち身口意三業に法華を信ずる人なり。(如説修行抄筆記)

とその法理を御教示してくれています。即ち、勤行・唱題は自身に対する折伏であり、折伏とは悪を破し善を生じされることだからです。ここで1点だけ重要なことがあり、唱題の時は【心に折伏を思わなければいけない。ということです。折伏ができる・できない、やる・やらない、ではなくまずは最初に心の中で「折伏をしたい」と思うことが重要になります。「折伏」を思わずに自分の願いだけを唱題していたら自身の謗法が消えないのでいつまでたっても祈りが叶わないのです。もちろん、自分の願いは好きなだけ祈ってください。最初に「折伏したい」と思うことを忘れなければ祈りは絶対に叶う。私はそのように心がけて日々の勤行・唱題をしています。

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング