創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2022年4月・白米一俵御書)

南無と申すはいかなる事ぞと申すに南無と申すは天竺のことばにて候、漢土日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり、我が身には分に随いて妻子眷属所領金銀等をもてる人人もあり又財なき人人もあり、財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず、さればいにしへの聖人賢人と申すは命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。

 

「蔓防」が解除され2カ月ぶりに規制なしの御講が今月から再開しました。そんな4月の御講拝読御書は『白米一俵御書』の上記の御文です。この御文もいくつかポイントがありますが今回は冒頭の【南無】について書きます。【南無】の語義について日顕上人は『妙法七字拝仰(上)』の中で、①帰命②度我③驚怖(驚覚)④尊敬⑤信順⑥稽首⑦敬礼の七義を御教示されています。各義の内容については割愛しますが、①帰命については同書のなかで、

◇この南無(帰命)ということには「没我」という意味が含まれています。つまり、命を帰すという意味は、信仰の対象に対し、自分自身の我を没するということであります。したがって、自分自身の我が強く、正直で素直になれない人間は、心からの帰命ということができません。(中略)この慢心や我見が強いと、帰命の心に至りません。

日顕上人は御指南されています。この御指南は【心法】に約した義です。そして【南無】を【色法】に約せば修行です。我々、在家としての修行とは、

◆然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(松野殿御返事)

と大聖人は仰せです。朝晩の勤行・唱題に御供養そして折伏。それらの修行を実践することが色法における【南無】の姿です。我見・慢心を交えず正直で素直な心で修行してこそ色心二法で御本仏に南無するということになるのです。私達はややもすると我見に陥ってしまします。例えば、折伏や登山・参詣などを「ノルマ」だと思い口に出す人がいますが、それが我見なんです。或いは唱題行での唱題数の目標を強制だと感じる。これも我見です。また「特別御供養」に対して「供養に特別も一般もない。特別供養なんておかしい」ともっともらしく批判する。これも我見。宗門や御住職、或いは同門を批判するのも全て我見なのです。仮に折伏や唱題、登山・御供養を実際に実践していたとしても、それを「ノルマ」「強制」などと感じたり、宗門や同門を批判していたりすればそれは身は南無していても心は南無していないことになります。別に宗門を擁護しているわけでも、黙って言われて通りにしろと言っているわけでもありません。大聖人が唱題・折伏・御供養・参詣することは成仏の為に大切な修行であると言われているのだからそれを素直に正直に修行しましょうよ。言っているのです。そのような信心が御本仏に【南無(帰命)】していることになりそれが即身成仏への近道なのです。修行において慢心や我見の心が生まれれば、やがては池田創価民や浅井顕正民のような謗法者となってしまいます。池田や浅井が謗法者になったキッカケは法主上人や宗門の御指南に対して素直に聞くことができず更には反発したからです。私達はそうした痴れ者の池田・浅井と同じ愚を犯すことがないようにしなければなりません。彼等は口では「南無妙法蓮華経」と唱えていますが、実際は【南無の心】などありません。池田創価に至っては南無(帰命)する対象である戒壇大御本尊様を捨てているので一体何に対して南無しているのか分かりません。法華経寿量品自我偈に、【質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命】と説かれていますが、これが【南無(帰命)】の本義です。創価や顕正は、「魔夢池田仏」「魔夢浅井仏」とでも題目を唱えているのがお似合いです。ともあれ、今回の御文と日顕上人の御指南を拝し素直で正直な信心を日々心掛けていこうと思いました。

 

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