記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。
【第32条】法華経をば、一部読まざれども、一部本尊の御前にもおき、我が前にも置くべきなり。方便寿量品につづめて読むも、本迹の所詮なる故に一部を読むなり。又、寿量品の題目を読みそえて自我げ偈計り読むも、一部なり。又、題目計り読むも、一部なり。されば経文には、皆於此経宣示顕説文、御書には、皆於此経宣示顕説とは一経を指すに非ず題日の五字なり、と遊ばさるる故なり。仍お法華経に於て、文義意の三の読み様あり。夫れとは、一部二十八品を読むは文を読むなり。又、十界互具の法門を云うは義を読むなり。亦、題目計り唱うるは意を読むなり云云。
本条項は当宗では法華経1部(28品全て)を読むことはしないけど御本尊と自分の前にそれぞれ法華経を置くという御指南で現在では在家信徒の自宅ではその必要はないが本山や末寺では御本尊の前と導師席の経机にそれぞれ法華経の経巻が置かれています。御本尊の前に法華経を置くのは導師の経典を読む声を通じて同時に御本仏も経典を読むことになり師弟相対して法華経を読むという義になるからです。本宗で法華経一部読誦しない理由として日寛上人は『末法相応抄』で、1正行の唱題の妨げになる。2折伏の妨げになる。と御指南されています。即ち一部読誦に長時間費やすと唱題・折伏の本来の末法のメインの修行に支障を来すからです。その上で一部読誦しなくても方便品・寿量品に二品を読んだり又は題目だけであっても法華経一部を読誦したことになるということを本条では示されています。これは日蓮大聖人の、
◆寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり(月水御書)
◆一部八巻文文ごとに二十八品生起かはれども首題の五字は同等なり、譬ば日本の二字の中に六十余州島二つ入らぬ国やあるべき篭らぬ郡やあるべき(聖愚問答抄)
等の御妙判に基ずくご指南です。さて法華経には「文・義・意」の3通りの読み方があり、一部読誦は「文」、方便・寿量読誦は「義」、唱題は「意」の読誦となり、それらを修行に相対すると、「文=広」「義=略」「意=要」となり末法修行の中心は「要」に在るので当宗では一部読誦は禁じられています。本条を悪用し創価は方便自我偈1座のインスタント勤行を正当化しますが本条は勤行に対する御指南ではありません。そもそもインスタント勤行ならば日寛上人の御指南通りに勤行時間が減った分は唱題・折伏の時間が増えなければいけないのに創価民は単純に「楽になった」と喜んでいるだけです懈怠謗法の罪行を積んでいるだけです。
【第33条】当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし。仍って今の弘法は流通なり。滅後の宗旨なる故に、未断惑の導師を本尊とするなり。地住已上の聖者には、末代今の五濁闘諍の我等根性には対せらるべからざる時分なり。仍って方便品には、若遇余仏便得決了と説けり。是れをば、四依弘経の人師と釈せり。四依に四類あり。今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思い合すべし。
本条は当宗の本尊義の「人本尊」についての御指南です。説明するまでもなく本宗においては、日蓮大聖人お一人が人本尊(御本仏)です。創価池田や顕正浅井を「人本尊」の如く扱う学会員・顕正会員は本条項に違背しています。大聖人お一人が御本仏である理由も書かれていて末法においては「未断惑の導師」(凡夫僧)でなけれ本未有善の衆生を成仏に導けないからです。本未有善の末法の衆生は「地住已上の聖者」(十地・十住などの位に登った聖人)のような立派な姿を見ると自分にはあんな風になれないと修行を諦めてしまう機根なのです。ですから示同凡夫のお姿で現れた日蓮大聖人のみが末法の本尊(御本仏)となりえるのです。
◇日蓮大聖人を本尊とする事・当家独頭の大義にして・興目嫡流の相承茲に存して誤らずといへども・他の日蓮諸宗に於いては大に惑ふ所なり(註解・第1条)
との御指南に在るように日蓮大聖人を御本仏と定めるのは日蓮正宗ただ一宗であり、このように定めるのが日興・日目上人の嫡流です。他門流では釈迦本仏を立て正宗を批判しますが、方便品には「若遇余仏便得決了」と説かれています。この意味は、
◇若遇余仏便得決了とは、方便品の文で、今の仏に遇っても謗法深重で成仏できなかった者は、未来世に別の仏に遇って、成仏を得るという意であります。(略解)
ということです。つまり末法の衆生は釈迦仏以外の仏によって成仏可能であり、その末法の仏とは凡夫僧たる日蓮大聖人であるという事です。
◆末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり(御義口伝巻下)
【第34条】唐朝には鉢を行なう故に、飯をもち上げて食する事、唐の土の法なり。日本にてはクギャウにて飯を用ゆる故に、持ち上げざるなり。同じく、箸の礼も唐の法なる故に、日本にては用いざるなり。日本にても天台宗等は、慈覚大師の時分までは、律の躰にて唐土の振舞なり。慈恵大師の代より、衣鉢を捨てて折伏修行の躰たらくにて、一向日本の俗服を著らるるなり。聖道は何れも日本の風俗なり云云。
◇此の一条の文等は宗門化儀に於いては濫りに外国風を模倣すべからず・成るべくは国風に近きが良きぞとの本師の意にて・他の条下にも亦此意を宣べられたるなり。(註解第58条)
との註解に書かれているように、本条の趣旨は本宗の化儀においては、みだりに外国の風潮とか作法を模倣して取り入れることはせずになるべく日本古来の伝統を守っていくという意味です。さらに広げれば時流に左右されるのも本条に違背する行為といえましょう。日蓮正宗では本条に基づき時の法主上人が化義を制定しています。池田創価は外国の会員が五座・三座の勤行に耐えられないからインスタント勤行に変更したと一見それらしい言い訳をいいますが本条を読めばその言い訳が大聖人仏法の化義に違背していることがよくわかります。日本古来の伝統を守る意義は日本は御本仏・日蓮大聖人がおわします本国土だからです。世界中に妙法が流布したとしても日本が本国土であることは変わりません。池田はスピーチにおいて日本や日本人を貶めるような発言したり、外国から表彰されて事を自慢したりして創価民はそれを広宣流布だと思っているようですが、実はそうした池田の言動は大聖人仏法を貶めている言動なのです。そして本宗に伝わる化義を勝手に変更したり、また否定することは大聖人仏法を軽賤し誹謗していることになるのです。
【第35条】法華宗は不軽の礼拝一行を本となし、受持の一行計りなり。不軽は威音王仏の末法の比丘、日蓮聖人は釈迦仏の末法の比丘なり。何れも折伏修行の時なり云云。修一円因感一円果文、但受持の一行の分の読・誦・解説・書写あるべし、夫れとは梅桃のさねの内にも枝葉になるべき分之れ有り、之を思うべし。
本条は本宗の修行についての御指南です。法華経法師品第10に五種の妙行(五種法師)といって釈迦滅後の修行として、受持・読・誦・解説・書写の5つの修行が説かれていますが本宗においては不軽菩薩の礼拝一行修行のように「受持」の一行だけ実践しなさいということです。その理由は法華経一部読誦を禁止したのと同じように五種法師全てを修行をすると折伏をする時間が削られてしますからです。但し受持だけといってもその中に読・誦・解説・書写の修行も一分も含まれます。勤行で経本を読んだり御書や歴代上人の書籍を読むのは「読」、唱題は「誦」、弘教や破折で法門法義を話すのは「解説」、手紙などに御書の一節を書いたり或いは教学研鑽に当たってノートを取ったりするのは「書写」です。このようなに「受持」の一行を真剣に純粋に実践すれば自ずから他の4つの修行は自然に含まれます。それは梅や桃の種の中に枝葉が含まれているようなものだという事です。いずれにしても大聖人仏法の修行は「受持」の一行で、その基本であり最低限の修行は朝晩の勤行唱題に在りますので日々の勤行唱題に精進していきましょう。
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