創価ダメだしブログ

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六巻抄拝読の為の基礎知識⑲(当流行事抄④)

今回は『当流行事』の第3の「唱題編」です。ここまで助行としての方便品・寿量品読誦の意義でしたがここでは正行としての唱題の意義を御指南されています。では早速読み進めたいと思います。

◆夫れ唱題の立行は余事を雑えず。此れ乃ち久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する夫れ唱題の立行は余事を雑えず。此れ乃ち久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり。末法の観心は信を以って本と為す。信無くして此の経を行ずるは、手無くして宝山に入り、足無くして千里の路を企つるが如し。是れ吾が家の最深秘蓮祖化導の一大事なり。

まず冒頭に唱題行の結論が書かれています。富士門流の唱題行とは【余事】即ち他の教法(教え)を交えず【余行】即ち他の修行をすることなく【事行の一念三千の南無妙法蓮華経】即ち本門戒壇の大御本尊を信じて唱題を申し上げる。ことが正行である唱題行の修行です。この「大御本尊を信じて唱題する」という修行を本門の題目といいます。「大御本尊への信」がない唱題は本門の題目ではありません。つまり三大秘法の題目ではないということです。そしてこの本門の題目は【蓮祖化導の一大事なり】とあるように唱題行こそ大聖人の化導の一大事なのです。ここで勘違いしていけないのは唱題は「化導の一大事」であり「化法の一大事」とは本門戒壇の大御本尊の御建立です。化法がなければ化導もありませんし化導には必ず化法がなければなりません。説くべき法がなくて修行だけさせるのが創価のインチキ勤行です。

◆問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべきや~

ここは末法において信ずべき法・仏は何か?という質問に対し日寛上人は馬鳴の『大乗起信論』を引用し『起信論』に書かれる一番最初の「根本」とは久遠元初のことであるとし、久遠元初の三宝である、法宝=大御本尊・仏宝=日蓮大聖人・僧宝=日興上人の三宝末法衆生は知るべきであり信じるべきであると御指南されています。

◆問う、有る人難じて云わく、日興上人は上足の第三なり、何んぞ是れ結要付嘱の上首ならんや云云~

ここは日興上人は六老僧の中では3番目の弟子であるのになぜ上首なのかという日興上人への相承への疑難です。これに対し日寛上人は六老僧の次第は受戒の順番であるが結要付嘱(伝法の有無)は「智徳の浅深に依る」といい文証・現証のおいても大聖人から日興上人へ血脈相承(結要付嘱)されことは明らかであると答えています。

◆問う、有る人尋ねて云わく、既に本尊を以って中央に安置す、世の帝王の如し、蓮祖・興師を左右に安置す、世の左右の大臣の如し~

ここは別体三宝式の御本尊ご安置の形式についての質問です。世間では「左尊右卑」であるから大聖人と日興上人の御影の位置が逆ではないか?という内容ですが日寛上人は「左尊右卑」は中国・日本の風習でありインドでは「右尊左卑」であって御本尊の相貌はインドの霊鷲山の儀式を用いているので「右尊左卑」のご安置形式は間違っていないと説明しています。

◆問う、日饒が記に云わく、寿量・題目倶に是れ正行なり云云。此の義如何~

ここは要法寺の日饒の「寿量品読誦も唱題もともに正行である」という邪義を破しているところです。文証を挙げて破折してます。趣旨をいえば二十八品の法華経(寿量品)は能詮(用き)であり題目は所詮(法体)であるから能詮の寿量品読誦は助行であって正行ではないという事です。

◆問う、我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。

ここが本編の結論的部分であり本宗法門の根幹の部分です。修行として唱えてている本門の題目のその「実体」とは何か?ということ質問に対し日寛上人は、

◆謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。

と明確に御指南されています。これは観心本尊抄文段の最後にも同じ御指南があります。つまり南無妙法蓮華経の題目の体とは、宇宙の法則でも我々凡夫の生命でもなく、御本仏・日蓮大聖人の色心二法であり具体的には本門戒壇の大御本尊である。ということです。ですから戒壇の大御本尊を離れて南無妙法蓮華経は存在しないのです。さて、ここで注意して欲しいのが御書には「南無妙法蓮華経の題目」等の記述が多くありますが、御書を読むときには前後の文脈を加味して、「南無妙法蓮華経の題目」という言葉が、法体としての御本尊を指しているのか、それとも修行としての唱題行を指しているのかよく分別してください。ただし「本門の題目」のメインの意味は修行としての唱題行になります。法体をいう時は「本門の本尊」です。一部創価民の中には「本門の題目が一大秘法だ」という莫迦がいますが「本門の題目」とはあくまでも修行であって法体ではありません。

◆問う、我等之れを唱え奉る其の功徳如何~

次に唱題の功徳について『当体義抄』『本因妙抄』の御文を挙げて書かれています。

◆問う、古より今に至るまで毎朝の行事、丑寅の刻み之れを勤む、其の謂われ如何~

本編の最後には丑寅勤行の意義についての御指南があります。丑寅勤行とは大聖人の御請訓に、

◆相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならずむかいにまいり候べし、三世の諸仏の成道はねうしのをわりとらのきざみの成道なり(上野殿御返事)

とあるように我々の臨終に大聖人が迎えにくるという事を法主上人が事の上に顕しているという意義があります。(それ以外にも意義はありますが)その意義を開いてすべての衆生を成仏へ導くという意義に通じます。創価では「本当に悩んでいることがあったら丑寅勤行をしなさい」という指導がありますが凡夫が自宅で丑寅勤行をしたところで意味はありません。あくまでも大聖人のご名代である法主上人が奉修されるからこそ丑寅勤行の意義があり功徳があるわけです。「困ったら丑寅勤行」なんていう創価の指導のような軽いものではありません。

以上で、『当流行事抄』を終わります。次回からはいよいよ六巻抄の最後の『当家三衣抄』に入りたいと思います。

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